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デンマーク紙の明るい訂正欄が羨ましい

新聞記者の仕事をしていた時に、私が一番恐れていたこと。

それは、悲惨な災害現場に取材に行くことでも、何ヶ月間も追っていたネタをライバル社に一面で”抜かれる”(先に書かれること)ことでもなく。

「訂正を出すこと」だった。

訂正というのは、新聞の片隅に載っている

…の記事で、居住地が「北道道」とあるのは、「北海道」の誤りでした
…の記事で、肩書が「大佐」とあるのは、「大尉」の誤りでした

といった小さな記事である。

さらっと書いてあるので、読者の方にはそうは見えないかもしれないが、この記事が出るまでのプロセスというのは、記者にとってかなりの苦痛を伴うものである。まずは、上司に報告し、始末書を書く。何度も確認したはずの記事が間違っていたことがわかって、自分だってショックを受けているのだが、いかに自分が注意散漫で、記者としての基本がなっていなかったか、といったことを、自ら事細かく分析してまとめる作業は、辛い。自分のミスのせいで、上司まで謝る姿を見るのも申し訳ない。

そして、訂正記事を書く。訂正記事は、記事が載った面に載せる、というのが原則である。朝刊には締め切り時間の異なる版がいくつもあるので、例えば、朝刊の13版のスポーツ欄に書いた記事に間違いがあったら、訂正記事は翌日の朝刊の13版のスポーツ欄に載せる、といった具合だ。

訂正は、記事そのものはたいてい数行の短いものだが、この訂正が”間違いなく”載るのを、しっかりと見届けなくてはいけない。訂正記事が間違っていたら、シャレにならないからだ。例えば、朝刊の12、13、14版と間違えた内容が載ってしまったら、すべての版の編集作業が終わるまで、作業スペースの隅っこにちょこんと座って確認をすることになる。周りの同僚が忙しくその日の記事を書いている時、お仕置きを受けている子どものように、哀れみの視線を感じながら、訂正が載るのを確認する私。まさに、針のむしろだった。

訂正にも色々あって、「61歳とあるのは62歳の誤り」とかいうのは、まだいい(恥ずかしいけど)。しかし、亡くなった方の名前を間違えてしまったりしたら、最悪である。ご遺族に申し訳ないのはもちろんのこと、社内的にも、もう、消えたくなるほどのダメージを受けて、こんな思いをするくらいなら、記事なんて二度と書くまい、としばらく思う。

そんなトラウマ経験を背負っているので、自分の記事が新聞の1面に載るといった時には、書き手としては嬉しい反面、1面で訂正を出すという悪夢の光景も同時に浮かんで、ビクビクしながら翌日を過ごすのが常だった。

デンマーク紙の明るい「訂正欄」

デンマークの代表的な日刊紙の一つである「POLITIKEN(ポリティケン)」の二面(一面の裏側)には、かなりのスペースを割いた「訂正欄」(FEJL OG FAKTA)が載っている。

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ページ全体でみると、右上に見えるのが訂正欄。

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これが、ツッコミを入れたくなる内容で、面白い。そして、明るい筆致の記事を読んでいると、日本の訂正記事とのコントラストを思わずにはいられない。

例えば、

「4月10日の記事で、DR(デンマーク国営放送)がこの先、”1925年”に100周年を迎えます、となってますが、その時代はとっくに過ぎてずいぶん時間がたってると思うんですけど。まあともかく、DRは、2025年に100周年を迎えます」

「ブラジルの人口を2100億人と書いたのは、さすがに多すぎでした。2億1000万人でした」

「最近、紙面では名前のミスが続いてますね。(名俳優のケーリー・グラントについて) Gary GrantとあるのはCary Grantのことですよね、それから…(と固有名詞の間違いが5つ続く)」

自分が記者時代にこれと同じミスを犯したらどんな目に遭っていただろう、と想像すると背筋が凍るような訂正が、連日、てんこ盛りである。見てわかる通り、それなりのボリュームがあるので、逆に訂正が何もなかったら、翌日の訂正欄が埋まらなくなってしまうことを心配するくらいだ。だが、訂正記事に人間味を与えてくれているから、記者にしても救いになっているだろうなと感じる。

訂正欄の下には、ミスを見つけた読者が編集部にすぐに連絡できるよう、連絡先の専用メールアドレス、電話番号と対応時間が書いてある。積極的にミスを見つけてもらい、それを率直に記事にするという、健全なサイクルが回っているようだ。

ポリティケン紙の記者に会った時、訂正を出す時の心境はどんなものなのか聞いてみたら、「誰だってミスはするでしょ。訂正を推奨して紙面の信頼性をあげようっていう文化があるから、報告するのは苦ではないよ」と語っていた。ちなみに、彼は国際政治が専門の記者だが、「北朝鮮」(North Korea)と「韓国」(South Korea)を間違えたことがあるらしい…。

ミスを罰するのではなく、チーム全体の学びの機会として前向きとらえるという姿勢は、デンマークではこの新聞に限ったことではない。製薬会社のR&Dを担う「LEO Innovation Labs」という会社では、誰かが失敗した時に、みんなで飲むためのシャンパンをいつも冷やしてあるそうだが、失敗を歓迎する組織風土を積極的に作っているデンマーク企業の話はよく耳にする。

日本とデンマークの訂正欄の違いはずっと感じていたことだったが、今になって書こうかなと思ったのは、最近、日本でも「心理的安全性」という言葉をよく見かけるようになったからだ。そして、記者時代には何もできなかった反省も込めて、私が2008年に米国で「心理的安全性」を学んだ時のことも、付け加えておきたいと思う。

「すべての失敗はギフト」

私が初めて「心理的安全性」という言葉を知ったのは、米ハーバード大の公共政策大学院に留学中のことだ。その日の授業は「いかにいいチームを作るか」がテーマだった。

今ではよく知られるようになったが、ハーバードビジネススクールのエイミー・エドモンドソン教授による実験の論文が、その日の参考文献だった。ある病院で、チームの質と医療ミスの報告数の関連性について調べたのだが、当初の予想に反して、「いいチームほど医療ミスの報告が多い」という結果になった。

不思議に思い、さらに調べて判明したのは、いいチームには安心して失敗を報告できる「開かれた雰囲気」があるため、ミスの報告数が増える結果につながっていた、ということだった。看護師が医師に対して抱いた小さな疑問について、声をあげられる雰囲気があれば、その後の深刻な事故を防ぐこともできる。一方、看護師が声を上げることを躊躇すれば、チーム全体としては悲惨な結果につながる可能性もある。これは、「心理的安全性」についての代表的な研究として知られている。

その日の授業は、「演習」ということで教室の外に連れ出され、2つのチームに分かれてゲームを競うことになった。床に、50センチ四方ほどのパッドに区切られている大きな縦長のシートが敷かれていて、ひとつずつ、前後左右に隣り合うパッドのどれかを踏みながらゴールに向かう。ただ、パッドの中にはビーッという警告音が鳴るものが混ざっていて、音が鳴ったら、チームの次のメンバーがスタートからやり直し。つまり、どこが”地雷”になっているかよく覚えていないと、いつまでたってもゴールまで警告音なしでたどり着くルートがわからない。警告音が鳴る地雷パッドを避けながら、全員がゴールに到着したチームが勝ち、となる。

このゲームのポイントは、他人の失敗(警告音の鳴るパッドを踏むこと)を、チーム全員が自らの学びとして、効率的に生かしていくことだった。さっさと”失敗”を重ね、警告音の鳴るパッドがどれかを探り当てることが大事。さらに、他人の失敗から学ばず、同じミスを繰り返す人がいても、チームとして負けてしまう。

珍しく教室を出た演習だったから、よく覚えている。「Every beep is a gift」(すべての失敗はギフト)という、担当教授のフレーズが印象的だった。

留学後、新聞社に戻ってから、この「心理的安全性」があったらもっといい仕事ができるんじゃないか、と感じることが時々あった。記事を書く時、特に裏付けを取るのが難しい記事を書くのは、情報のピースをパズルのように組み合わせながら全体像を描こうとする、不安な作業でもある。だが、ミスに対する罰があまりに厳しいと、これはこういう流れになる、伝える価値があると9割の自信があっても、想定外のことが起きて結果的に記事が間違ってしまう事態を恐れて、書けなくなってしまう。

でも、絶対に間違わないことだけを追っていたら、当局がまもなく発表する内容を先に書くみたいな内容に偏ってしまうんじゃないのか。ちょっと尖った記事を書こうという、挑戦する姿勢が削がれてしまうんじゃないか。そんな問題意識を伝えてみたこともあったけど、「間違われた側に与えるマイナスのインパクトを考えるべし」という正論を突きつけられると、一兵卒の私にはいかんともしがたかった。当時は、心理的安全性という概念が浸透していなかったこともあるが、ハーバードの授業が「リーダーとして」いかにいいチームを作るか、という内容だったように、チームを率いる側がイニシアチブを取らないと、組織に心理的安全性を作ることは難しい

その後、グーグル社で成果を出し続けるチームの特徴が「心理的安全性」だったと知られたことをきっかけに、日本でも、この概念が広く知られるようになってきたようだ。とてもいいことだと思う。

人はどうしても間違える。個人の失敗はチーム全体の財産として、学べばいい。価値ある挑戦に躊躇なく挑める職場が増えてほしい、と思う。

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