「カルチャー顔」をただのネットの炎上で終わらせたくない

本当にどうでもいい記事だし、ロジックも文章もおかしなところだらけだし、謝罪文と共に記事が削除された後ですが、もう一度自分の考えを整理するために書いておくことにしました。

何があったかとかは以下で説明しますが、『カルチャー顔…』という記事を偶然見つけてそれに結構怒ってしまい、自分がツイートしたのがきっかけに炎上して記事が削除されたということがありました。その記事内容に関してはあまり語る余地はないのですが、自分が怒ったものの何がどうして許せないのか、自分がこれからどうしたらいいのか、自分が言ったことは本当にあってるのか、いやどうだろうここは言い過ぎなのでは、とかを考えたのでそれを書いておきます。

なにかネット上で炎上があった時、それが文化の話であったとしても、それは社会の中でも判断つかないグレーゾーンの議論の話であることが多々あります。こんなこと普通に社会で広く議論されてきたことはなかった、みたいな。で、炎上をきっかけにその微妙な隙間がこっちサイドとあっちサイドという風に広がってしまうのはよくあることなのですが、白黒つけるところはつけつつ、どこかお互い歩み寄ったり、合意したり譲歩できるガイドラインやルールを作るということをしないといけないと思っています。今回はなんとなく自分が撒いた火種だと思うので、炎上させて終わりにするのは居心地が悪いので、長文になってしまいましたが書きました。

何があったか?なぜ許せなかったのかという理由

まず経緯を簡単に説明します。DON'CRYというメディアに『「カルチャー顔」が好きで好きで好きで…(略』という記事(ウェブアーカイブ)が昨月末に投稿されました。その中で筆者は、様々な俳優やミュージシャン、モデルの顔を並べて「自分はこの顔をこういうところが好きで、これをカルチャー顔と名付けることにした!」ということを書いているのですが、それが自分にとってはいろんな意味で許せなかったので意見をツイートしました。

自分の一連のツイートを見ていただいた方もいるかと思いますが、自分が許せなかったのは以下のような理由です。

1. さまざまな表現(もちろんモデルも含めて)をしている人の顔を並べ立てて、適当で失礼な例や表現を用いながら的を得ない分析をしている。
2. 顔の形状などで人を恣意的にカテゴリー化し、それに「カルチャー顔」という名付けをしている。安易な類型化は差別に繋がるし、その人の「中身」に目が行かなくなる可能性。
3. 「カルチャー顔」は、むしろ多種多様な顔の人たちが様々なフィールドで活躍するようになってきた現状の「カルチャー」の作り手・オーディエンスの方向性と反している。

1番目の理由にについては記事本文を読んでいただいたらわかると思うので割愛します。

語っちゃだめなの? ー カテゴリー化の欲望と危険性

2番目は特に問題なさそうだし、語るだけなら問題ないよね?みたいな意見もあると思います。今回の記事はもしかしたらその語り方が良くなかった「だけ」なのかもしれないと思いました。失礼のない言葉遣いで、Aが好き、Bが好き、で当たり障りない「アンニュイな顔」的な名付けくらいなら炎上もせず、自分もそれほど怒ることもなかったのかもしれないと思いました。自分の好きな顔ってあるし、その好みも話出来ないのは窮屈だと思います。それは自分にも否定できません。その好きな顔の共通点について語ったり考えるのをやめることは自分でもできないよなーと思います。だから今回の炎上を見て「なんか自分が責められている」と思った人も多いと思います。それに関してはそうは思わなくていいと思いますし、自分の書き方も悪かったと思っています。ただ「なにか顔に共通項を見出して、イメージを語る」ことや、またもっとカジュアルに「○○っぽい顔」という言い方は、本当に見た目なんとなく分かった気にはなるし、実際は分類した気になっているだけで主観的なものでしかない、という自覚だけはしておかないといけないな、と思っています。

じゃあどうして自分が「差別やレイシズムに繋がる」と言ったかというと、顔を並べて「○○顔」と名付けることは差別の道具として使われた過去があるからです。「ハーフ顔」という言葉のイメージが目鼻立ちが整った、西洋の美と東洋のエキゾチックさを持ち合わせた人であるように、それはミックスルーツな人の現実とはかけ離れたものであり、ときに誰かの生きにくさに繋がるものです。本文中にあった「(もう少し整っていさえすれば)標準的なハーフ顔」という普通に侮辱でレイシズムな発言は許されるものではありません。顔を類型化したいという欲望があるからこそ、こういう差別の作用点と近づいてしまう可能性が高いです。ちょっとめんどくさい話かもしれませんが、顔を分類するという話には暗い歴史があるんです。昔、骨相学とか観相学といった顔を分析する学問が、ユダヤ人を差別する理由として用いられた過去があります。また頭蓋骨の脳みその体積で白人を頂点とする人種の階層化が提案されたこともあります。もちろん、今回この記事には意図的な差別があったとは思いませんが、あまりにも不用意で、メディアとしてそれを出すと、意図していない扇動に結びつく場合があるということです。

見た目を語ることとルッキズム

カルチャーであれサブカルチャーであれ「見た目」は大事です。見た目から好きになることもあれば、ちょっと無理かなと思うこともあります。今回の炎上を見て、エンターテイメントとしての見た目の話や、表現としての見た目の話を自重しろということもないと思います。自分だって見た目いい人好きです。けどその「見た目いい人」っていうのはめちゃくちゃ主観的なものでしかありません。ただしそれは「外からの見た目での評価」がその人の全てに優先していくという意味でのルッキズムとは違うと思います。じゃあルッキズムから逃れるためには?外見や容姿だけで人を評価しなければいいだけの話です。それはモデルの顔やメイクなどの話をするなという話では一切ないです。その人の外見を、その人の中身や価値の話に還元しなければいいだけの話です。むしろ表現の話をするときに、それ抜きで何も話せないほど大事なことだと思います。見た目もその人の表現の一部ですから。ただ今回は見た目の話、特に先天的に与えられた目鼻立ちなどの生物学的な造形を、フォトグラファーや本人の表情といった「表現」とごちゃごちゃにしながら、失礼な例を用いたり謎のレトリックを用いて一辺倒にカテゴライズしながら、表現者たちの表現内容や人生までも勝手に断定したので、より多くの人からの批判が集まったのではないでしょうか。

難しいのが、これはどこまでがOKかNGかどうかを誰かが明確に決めることができないということです。ただし、昭和や平成と違って、その線引を絶えず自分たちで探りながら話をしていかないといけない時代になってきていると思います。なにか見た目から共通する要素を抜き出して言葉にする時、それは本当に類型化できるのか?それは客観的なのか?客観的であったとして、それは社会的、文化的なステレオタイプを強調してしまう話にならないのか?その表面的な分析は本質的な分析になっているのか?人を傷つけることではないのか?そうでなければ安易に他者に自己を投影しているだけ、つまり他人を利用して自分の意見を述べているだけです。考え方を変えると、わたし達の直感は冷静な客観性を備えた時、素晴らしい意見や知見になるのでは、と思います。

ミレニアル以降のカルチャーの推進力 ー 自己決定、エンパワーメント、超個人化

3番目の話は、2番目の最後とも繋がる話です。特にミレニアル世代のカルチャー以降、内容、価値を定型的な見かけで判断する昔ながらの考え方にはとらわれず、自分だけの生き方、振る舞い方で自身をエンパワーメントするという表現がカルチャーの推進力になってきました。実際、これらの記事内で並べられた顔を見てください。普通に考えてカテゴリー化なんて不可能な人たちでしょう。だからそれに一貫性をもたせるためのロジックもレトリックもめちゃくちゃです。そして、この世代の人を「なんとなくの顔の雰囲気」でカテゴライズするのはアンチカルチャーでしかないと思います。自分のことは自分で決める。人の価値観には迎合しない。その態度と顔の様相でのカテゴライズという欲望は水と油なのではないでしょうか。

昔からファッション業界でもいわゆる一般的な美男美女と呼ばれるようなモデルではないユニークなモデルが起用されて世間を驚かせるということがありました。その場合、「美」そのものや「○○らしさ」という美学やカテゴリーを改めて揺り動かす狙いで起用されてきました。今のトレンドはSNSなどによる「スタンダード化」とそれに逆行する「個人化」という二極化が起こっています。「ラッパーらしくない」「モデルらしくない」「ミュージシャンらしくない」「女・男らしくない」「ゲイらしくない」「◯◯人らしくない」そんなステレオタイプに基づいた外部や内面からのプレッシャーや疎外感はいつの時代もあります。それらを跳ね返したり、さらりと躱したりして、自分が自分自身であることをセレブレーションする、それが今のカルチャーだし、ここで挙げられている人たちのスタンスだと思います。他の誰でもない「個人である」というスタンスは、誰かに代弁してもらい、言葉を与えてもらって輝くようなものではなく、自分自身が自分自身であり続けることが武器であり、その見た目も、ある人にとってはどうでもいいことなのかもしれません。何によって自分を評価される、というも自分で決定するのがこのスタンスだと思います。

その「個人化」はカルチャーサイドからの「トレンド」やステレオタイプへのカウンターであったように思います。そして、そのカウンターは人々の心をしっかりと掴んでいるが上に、一般化して、陳腐化し、するりと新たなマーケットのトレンドになっています。なんとなくの雰囲気のものが大量に生まれて、なんとなく「流行ってるよね」って理解できてしまう。それは止めようのないことかもしれません。そして「カルチャー顔」と言われなくても、ここになんとなく顔を並べられたら何かしらの類似性を見つけようとしまうのは、目の前のことを理解しようという意思の証であり、そのカテゴリー化への欲望は、頭が勝手に始めてしまうようなことかもしれません。けど、それを口に出す前にその本質はどこにあるのかちょっと考えると、その直感はより良いものになると思います。

それは文化を発信している人たちだけに当てはまる話ではありません。彼ら/彼女らの表現やスタンス、外面や内面的な表現を、受け手が昔の「見た目」の価値基準ではなく本質的な表現を見よう聞こうとし、それを受け入れて応援しているからこそ、カルチャー内部に多様性が生まれ始めました。だからこれだけ多種多様な人たちが国内外で活躍し始めているのだと思います。それを適当なサンプル数と理屈で「カルチャー顔」としてまとめて消費しやすくするのは、カルチャーの力学そのものに反してるし、そのアーティストたちを応援するファンをもバカにする行為だと思います。「カルチャー顔」好きなんでしょ?って。誰が好きは自分たちで決める。そんなふうにオーディエンスも間違いなく「個人化」している時代ですから。

カルチャーの良き伴走者に

ファンの間でなにかに事象を名付けること、前述したようにそれはファンの間での楽しみでもあります。そして各種メディアで活動するライター、評論家、もしくはマーケターは、今カルチャー内部で何が起こっているかを、それをうまく言葉や文章で表現し、外部に紹介したり媒介します。それ自体は「やってはいけないこと」ではなく、むしろ素晴らしいカルチャーの伴走者になりえるでしょう。気をつけないといけないのは、その言葉を聞いた人がどう思うか、それによってカルチャーが大事にしている価値観が損なわれることがないかという点です。筆者は名付けることによる「マーケット」や「トレンド」の名付け/発見を狙っていたのかもしれません。筆者のリツイートやツイートを見ているとその目論見は多少なりとも成功していたように見えます。しかし、それは大きな間違いであったと思います。ツイッターを見ると「カルチャー顔、本音で言うとわかるけどな〜たとえばAとかBとかCとか」と色んな人が「本音」を語っているのですが、それが何一つとして共通項がない主観的なものなようです。「カルチャー顔」は主観的な好みでしかないんです。そしてそのラベリングは「カルチャー」の本質的な価値観と反しています。

もちろんカルチャーそのものが「マーケット」になったり、何かの「マーケティング」になる潜在能力があるのは疑いようもありません。カルチャーも「発見」してもらってマネタイズしていかなければいけない現実があります。ただ、カルチャーとコマーシャル/マーケティングの間の危うい関係性は常に意識しなければいけません。カルチャーはおろか、巻き込まれた企業、メディア、トレンドマーケターそのもの自体が陳腐なものになり、その生態系がめちゃくちゃになる危険性があります。これは誰しもが何かしらに心当たりがあることでしょう。カルチャー自体の「自己決定」「媒介を求めない」というスタンスは、どうやって扱うか、どうやって語るか、どうやって文化を再表現するか、コマーシャルに流用するかを考えるのが難しい時代でもあります。しかし、そのような困難と向き合い、カルチャーと共に走りながら、カルチャーを一緒に育みながら、表現者と共に生き、経済を回し、社会に何かしらのインパクトを与える、その方法を模索し実行することは大変やりがいがあり、素晴らしい仕事であると信じています。

少し話はズレるかもしれませんが、この本文中でも頻出する「カルチャー」という言葉があまりにも手垢が付きすぎ陳腐化しすぎているように思います。自分自身「カルチャー」という言葉をキャッチフレーズのように乱発する人はあまり信用できないと思っています。もちろん昔の「カルチャー」は本物だったとか「俺がカルチャーだ」と言うつもりもありません。ただ「カルチャーメディア」や「カルチャーを使ったマーケティング」「カルチャーが大事」というような「カルチャー」の言葉のイメージが先行しすぎて、本来のカルチャーの担い手であるアーティスト、創作物、オーディエンス、そのカルチャーを育む場所やメディアが疎かにされているような気がしています。その「カルチャー」という言葉を巡る機敏を察している人はすでに「カルチャー顔」を冗談やジョークとして使い始めているようです。筆者の慧眼であったとは思いませんが「カルチャー」というバズワードは、カルチャー以上の意味や効果が持たされてしまって独り歩きしている気がしてなりません。

何かしらの表現をしている人たちが、内容は置いておいて顔だけで「カルチャー顔」と並べられ、また「カルチャー顔」というワードがこうやって広まったときに、それが人を称賛する言葉であれ、小馬鹿にする言葉であれ筆者の手を離れて使われたとき、名前を挙げられた人たちはどう思うでしょうか。何かのカルチャーに打ち込んでいる人で「顔」は少なくとも表現より上に来ることはないと思っている人にとって、こういう「カルチャー」は余計なものでしかないのではないでしょうか。それは創作物や表現を介したコミュニケーションが優先される場であってほしいと自分が願っているからかもしれません。

文化が分断し、わたし達が分断されてしまう前に

今回の事件にまつわることで個人的にとてもがっかりして、今回の出来事よりも憤慨したことが2つありました。一つは「無知な人がカルチャーをちょいいじりした時に、みんなで袋叩きにするのってなんて言うんだろうね」という、論点をずらした、まるでこの記事を見て怒った人が何か悪いことをしているという印象を与える意見です。まず今回の引き金は「カルチャーメディア」を自称するメディアに掲載された記事でした。そしてそれは「いじる」と言ったかわいげのあるものではなく無知やリスペクトの無さでした。それに声を上げたのです。これはネット上の集団リンチではなく、それぞれの価値基準にあわせてそれはおかしいと声を上げただけで、いじめのようなものとは違います。ここにある問題点や議論となる点を棚上げし、超越的な立場からの炎上ウォッチャー的態度には悲しくなりました。あとは今回の事件を見たメディア関係者が「パーソナルな空間での会話とパブリックでの発話には気をつけないと」と教訓を得ていましたが、これはそういう問題でも全く無いでしょう。居酒屋でやってても隣の席の人からそれはおかしいって言われるでしょう。

顔の黒塗り、ナチスを想起するデザインの衣装、This Is Japanのダンスといったカルチャー内の「ポリティカル・コレクトネス」を巡る炎上は多々あります。個人的に、それらの行為は「にわか」や「無知」として批判され炎上してしまうのも仕方ないと思うと同時に、炎上して謝罪して削除して終わり、といつまでたっても埋まらないカルチャー内の分断や議論の深まらなさが気になってしまいます。その分断が一層広がってしまって、もう歩み寄ることがなく、合意を作ろうと思わなくなり、攻撃し合うしかないとなる前に、なにかあるたびにいろんな意見を出し合って、こういうことがあった時に、これからどうしていくのがいいかを話し合って、意見を求めたり議論したりしなくてはいけないと思います。その責任は、カルチャー内部の人、その周りにいる人、カルチャーとマーケットを繋ぐ人、そしてカルチャーメディアに関わる人、そしてオーディエンス一人ひとりにもあると思います。

あまり詳しくない人と詳しい人の間、もしくは意見が対立し合う人の間に立って交通整理をするというスタンスが増えないと、何も良くなりようがないのではないでしょうか。今回炎上を報じるメディアがたくさんありましたが、何が問題で何がいけなかったか、メディアとして、オーディエンスとして何をどうするべきか、何を議論すべきかということが語られることはありませんでした。メディアは当事者に謝罪をした上で何が問題であったかをしっかり解説した上で、これからの編集ポリシーやスタンスを表明するなどしてほしかったと勝手に思いました。いわゆるヒットアンドアウェイな「カルチャーメディア」になるか、カルチャーとそこにいる人と共に考え抜いて生き抜く「カルチャーメディア」になるかは大きな違いだと思います。

写真撮ってる自分がいうのもおかしいのですが、ソーシャルメディアでツラは言うまでもなく大事になってきています。それを批評するならば、公正なものを目指しつつ、褒めたり分析しているから気付かれないところでやればいいからと居直らず、正々堂々、公正に考えて、フェアな議論の仕組みでもって語るべきだと思います。もちろん自分自身も完全な間違いや偏見に基づく発言をしてしまったこともあり、今でもおもしろいからと言ってしまって人を傷つけたりしたこともあるので、今一度この機会に反省し改めます。

政治や経済と同じくらい文化の内部で起こっていることは大事です。アメリカの文化と政治の状況を見るまでもなく、文化の分断は社会の分断だと思っています。文化的表現は社会をよりよい方向に動かしたり、社会を豊かなものにできます。もちろんプロパガンダにもなりうるし、素晴らしいマーケティング、もしくは最低のマーケティングにもなりえます。だからこそ当事者としても、オーディエンスとして、真剣に考えて、なにか未来に繋がるように行動していきたいと思います。

追記 2019/05/03 16:33

「インターネットをもっとゆるりと楽しんで行こうよ〜。」「もう怒ったとかいいからこの画像見てよ」とか「炎上とかほんとなんかイキって、そういう人たちがインターネットを息苦しい場所にしてる」とかそういうインターネットの先人たちに、そして人間の歴史に甘えたような意見には一切耳を貸しません。なんで怒ってるかどうか考えられないクソかよ。そういう「ゆるい冷笑」っぽいのが一番むかつきます。もちろんポリティカル・コレクトネスこそが唯一の正義とも一切思いません。一見して間違った意見があれば袋叩きにしていいととも全く思いません。その人もそれに甘えていると思います。インターネットでもリアルでも、意見の一致しないこと、誰かがおかしいとおもうこといろいろあります。当たり前じゃないですか。だからこそ、ときに議論し合って、頭を使って解きほぐいて、言葉を交わして、前に進めていかなくてはいけません。


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コメント4件

you are legend
これは、飲食店として一番心苦しい事です。本当に心無い言葉を無意識のうちに吐いてしまう人の多さときたら...そしてそれは自分も無意識にしてしまっているかもしれないという危機感も同時にあります...
カルチャー顔の記事を読んで好きなアーティストさん達が、あんな粗暴な扱われ方でショックを受けたのを忘れかけてましたが、思い出しました。こうしてしっかりとした意見を述べた上で、あの出来事を形に残していただけて感謝します。
Im your side!!!! 私も過去に自分のアイデンティティについてTwitter上で話したらネトウヨに絡まれてかなり炎上しました。差別発言は許されるネット社会。。
差別に対して反論したら炎上ってどゆこと?ってなりましたが、学んだことはバカを相手にしてはいけないということです笑
あと、いつも写真作品見てます❣️応援してます。
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