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【過去記事】Jordan Diary 97-98②

 97-98シーズンに雑誌「HOOP」で連載していたJordan Diary再掲載。2回目は98年1月~2月の話題です。


Jordan Diary 1998年1~2月

           HOOP 1998年4月号&5月号掲載(日本文化出版)

1998年
1月3日(金)

 対ピストンズ戦のジョーダンの出場時間は47分。4Qまで接戦だったとはいえ、いつもよりずっと多い。というのもこのところ腰痛のため、いったん身体を暖めたらプレイし続けたほうが楽だから。この腰痛についてテレビ・カメラの前で聞かれたジョーダンが「12月24日にサンタクロースの手伝いをしていて痛めたんだ」という表現で説明したことを考えると、どうやらジョーダン家の子どもたちはまだサンタクロースの存在を信じているようだ。

1月9日(金)
 ニューヨークでの試合の前に、フィル・ジャクソンコーチは「マイケルがここ(NY)でプレイすることになっても驚かない」とコメントし、ニューヨーカーたちにひとときの夢を与えた。確かに、ニューヨークはジョーダンが「バスケットボールのメッカ」と呼ぶ街。歴史がある建物が好きなジョーダンは、マジソン・スクエア・ガーデンでは活躍することも多い。このことについて聞かれたジョーダンも「ニューヨークでプレイするのは好きだよ」と認めたものの、そのあとすぐにニックスのユニフォームを着る可能性を否定した。その理由は家族。
「独身なら考えたんだけどね。でも、それは身勝手なことだ。僕はまず家族のことを考えなくてはいけないからね」
確かにジョーダンほどの有名人だと、生活環境を変えることはかなり大変そうだ。家族を大事にするマイホーム・パパというジョーダンの素顔が垣間みえたコメントだった。

1月18日(日)
 ロケッツ戦。試合中も悪友チャールズ・バークレーとトラッシュ・トークを楽しんだジョーダンは、45点をあげてブルズを勝利に導いたあとのロッカールームでも舌が滑らかに回転していた。バークレーのチームメイトのドレクスラーが、バークレーは試合中の口数を減らしたほうがもっといいプレイができるのではないかと提案したと聞き、「黙ったらチャールズはチャールズじゃなくなるよ。・・まるで僕が髪をのばしてプレイしているようなもんだぜ」と笑った。

2月4日(水)
 ユタ。珍しく試合前のロッカールームでくつろぐジョーダンに、この夏の予定を聞いてみた。ナイキの仕事でアジアの国に行く予定だが、残念ながらその候補地の中に日本は入っていないとのこと。
「でも、日本は僕も妻もとても気に入ったから、絶対にまた行くよ。ただし、今度は仕事ではなくて休暇でね」

2月13日(金)
 対アトランタ戦。ホークスコーチのレニー・ウィルキンズほどジョーダンにブザービーターを決められたコーチはいないのではないだろうか。この試合も残り 4.3秒、110対110の場面からジョーダンがブザービーターを決めてブルズが勝ち。最後のプレイで、ジョーダンはダブルチームに寄ってきたチャッキー・ブラウンを、自分のマークマン、スティーブ・スミスのスクリーンとして利用し、シュートを打てるだけのスペースを作り出した。試合後に、チームメイトにパスすることも考えていたか聞かれたジョーダン、躊躇することなく「 4.3秒は僕のショットだ。10秒あればディフェンスを引き出してオープンになったところにパスを回す時間もあるかもしれないけれど 4.3秒なら間違いなく僕のショットだ」と断言した。

2月17日(火)
 ジョーダン35才の誕生日。でも、ジョーダンは35才のようにプレイしたくないという。
「35才のようにはプレイしないことが目標なんだ。実年齢が35でも、選手としてのプレイ年齢は25、28、30くらいでいたい。今のところはそれができていると思うし、この先もそれを続けていきたい」

2月21日(土)
 ジョーダンが記者たちの間で人気がある理由のひとつは、試合後のインタビューでも単なる質問と答えのやりとりだけになるのでなく、ジョーダン自身が会話を楽しんでいるところだ。19日に行われたキャフィーのトレードが理屈にかなっていると思うか聞かれたジョーダン、質問をしたレポーターに「君は納得できる?」と聞き返した。レポーター氏が「いいや」と答えると、「ということは、これで納得していない人間が二人ということだね」と笑った。

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