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あと一歩だけまえにすすもう

実は、スガシカオさんの「プログレス」という曲が大好きです。おなじみNHKの「プロフェッショナル仕事の流儀」の主題歌です。私自身なんでこんなに仕事にこだわるのか、がわからなかったのです。でも、この7月シェアアオフィス学び場とびらで、魔女?なみへいにタロットで読んでいただいたとき、「レゾちゃん(わたしのニックネーム)家庭って知らんねんな、まーそれはしゃぁないわ、過去生でもあんまりしらんねん。でもまーそれは、これまでのことやし。」「ほんでな、仕事=生きているってことになってるねん」スポンって言ってもらって、あ!なるほどって腑に落ちました。

なんでこんなに目の前の仕事を「しなくっちゃ」「やりたい」って思うのかそれは私にとって仕事=生きる事やったから。ならしゃぁないね、生きることを、やめたいとか、面倒くさいっておもちゃうとそっちの方がかなりヤバい。

にしても、これまで、いろんな仕事やってきた。目の前にあるもの、やって言われたこと、そのほとんど全てがわたしにとってワクワクするものだった。

最初の仕事は、大学生協でコクヨパックノートを売った。新人配属で注文も好きなようにさせてくれたので、新学期なんにも考えず仕入れたら仕入れただけ売れて、上司にビックりされた。

その次は、書籍部だった。これも新学期に毎日段ボールで100個以上の書籍の入った荷物が届いて、届いて届き続けた。ガンガン店に出して、積んで返品して、また注文してその繰り返しを生きた。

転職して、地元の商工会に勤めた。なんだかよくわからないまま融資を担当し、言われるがままに調書を書いて、銀行行って振興局行って保証協会行って調整して、なんだかわからないまま、小口の融資を中心にまとめると、年間〇億円という金額の融資をまとめていた。と、言っても保証協会がバックについている融資ばかりなので金融機関のリスクはほぼない。

そんなことしながら、お芝居をやるようになった。毎日仕事が終わったら、自家用車か、JRに乗って練習会場に駆けつけ、土日は朝7時大阪集合の自主練その後、練習会場に舞監が9時に来るまでの間の掃除、居住まいを正して舞監の入場を待つ。

日常は何があっても息子には手作りの食事。(芝居練習時はコンビニ弁ももちろんお世話になった)でも自宅で食べるときは絶対手作り。息子、今にして言う「もっと手抜きしてもよかったんちゃうん」まぁそうやけど、自分は親としてあの頃なにをどうしていいかわからんかった。目の前のことをこなさなくっちゃでメイッパイやった。ただ何がなんでも食事で手抜きはできないと信じ込んでいいた。

芝居は役者として輝くではなく、実は裏方の方が楽になったので意図的に裏方専属になった。役者として舞台に立てるかどうかのオーディションの緊張感に耐えられなくなったから。その日までにセリフを覚えて、ふりを覚えて、感情をのせ、すべらかにうごけるように練習を積み重ねるその緊張感に耐えることがどうにもできず、お掃除と舞台にモノを置く時の場所をミリ単位で刻むバミリの製図や実際にバミリをする=黒ビニテを貼る作業部隊で動いた。

練習が辛くなって、3か月近く芝居を離れて復帰したのは、芝居のラストを飾る龍が躍る瞬間に雪を降らす担当だった。練習会場ではあったが、舞監の見る前でジャストタイミングで私は雪を降らせた。仕掛けを作った美術リーダーの仕事も凄かったけど、それを一瞬で使いこなした私も凄かったと、今にして思う。もちろん本番も私が雪を降らせた。

舞台を離れても時々は依頼があって、本番のため会場入りした100名を超えるメンバーの為に3日間昼~夜とサラダを創って提供するという仕事もした。本番会場のトイレ横の小さな炊事場ともいえないようなシンクで野菜を洗って、45リットルのビニール袋でキャベツを揉んだり、ニンジンを千切りしてニンジンの甘みを活かしたラぺを創ったりした。全食完食してもらえた。もちろん他の裏方専属のメンバーの協力あってのことだけど、レシピを考え必要量を計算し買い出しもし、お手伝いメンバーに指示をだしたのは私だ。私がやりきったことには違いない。

芝居の周辺をうろうろしながら、現実の仕事では知的資産経営報告書に出会って、京都府第一号の作成に関わった。ある一時期、報告書を京都で一番沢山作成した人になっていたと思う。

それから、中小企業庁号に乗せてもらえることになって、しばらく船頭さんをさせて頂いた。最後の年は、100人規模の講演会の企画から司会で進行を仕切るという大役を2回担当させてもらった。100人近い公的支援機関の支援員を集めて勉強会を仕切ったりもした。今思えば得難い経験をさせてもらった。本当に人に恵まれ、その有難いご縁で活かされてきた。

時々に、思いもよらない人に巡り合い、手を差し伸べてもらい、「これやってごらん」を、こなしてきた。

仕事のできる人にとって、私の道のりなんてなんでもない仕事の連続じゃないって思われるかもだろう。でも、私の十代はどうやって生きて行っていいかわからないの連続だった。二十代も三十代も、自分を持て余しどう人と関係をとればいいのかも分からず、息子との関係は最悪で不安と恐怖と葛藤の連続合わせ技の日々だった。夜になると、いろんな恐怖や不安、心配事が襲ってきた。それで、芝居、仕事、子育て、その合間に本を死ぬほど読んだ。読まずにはいられなかった。自分の中の恐怖や不安を何で対処していいかわからなかったし、なんであれ読まずにはいられなかった。

多分あの頃の私を知る人の誰もが、一人になった私が恐怖や不安で七転八倒しているとは想像もしていないと思う。実際お昼間や人といる時私自身も、そんな恐怖は全く忘れていた。この忘れているという点で「乖離」があり、「統合」されていないという状態なんだと今にして思う。だから精神科医にかかるという発想は微塵もなかったし、どちらかと言えば自分を叱咤激励し、恐怖を罪悪感に変換し、もっとやれると自分を責める方に導いていた。

今、自分を振り返って思う。なにより私を今日まで活かしてきてくれたのは、目の前の「仕事」という存在だ。「仕事」があるから、目の前にやることがあるから自分を恐怖の中に閉じ込めず、病気に陥らせず、自分という存在を人の中で活かしすことが出来た。業績の大小ではない、「これやってください」と提示されたことがあるから、全身全霊で取り組めた。コクヨパックノートを平台にガンガン積み上げた日から、電卓も使いこなせず、仕出し屋のおちゃんに怒られながら、必死に事情を聞いて融資調書を書き上げたこと。「雪」を降らせたときに使った全神経の集中具合や、講演会の司会で100名を前にして会場中を包もうと広げた私のオーラ。そうして、度々に新しい力を発揮しながら、自分を活かしてきた。

時に、活かすではなく、「欲しい」「くれくれ」に陥る自分を遠くから真剣に叱ってくださる最高の仲間も今は居る。

だから、やっぱり、自分を活かし、人を幸にするために、あと一歩だけ前に進もう。

私は仕事があるから生きてこれた。それは生を続けるだけのためのものではなく、自分を活かす、だったから。人は自分の中に病気や人生を送るのにマイナスと思われる課題がある時、病気を治して「健康」ではなく、病気があったから、この機能が強くなった、この才能が活かされたという地点を目指すのが治療だという趣旨の文章に出会ったことがある。マイナスもしかり、マイナスを凹凸なしの平面に整えて終わりではなく、マイナスを活かして、こんなに面白い人生の形を創ったよという創造をすることが着地点。







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京都で「知的資産とビジネスモデルの専門家」として、活動しています。現在は内閣府の経営デザインシートの普及に勤めています。