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75年たってもなにも戻ってこなかった

今年も、私の住む地域では、お盆を迎えるにあたって、8月2日に施餓鬼法要8月7日にお墓の掃除、13日に「おしょうらいさん」になった先祖をお墓まで迎えに行くという一連の行事があります。これまで母に任せっぱなしだったこうした行事、出来る限り付き合っておこうと思い同行しました。

私の源家族、私の両親はお見合いで結婚し、夫婦で山本家の「養子」となりました。跡を継ぐ子供がいなくなった山本家を維持するための結婚であり、養子縁組でした。

山本家とは私の母の母、つまり私の祖母の「おハル」の実家です。祖母の実家~もちろん今は私の実家でもありますが~には、いわゆる跡取りとなる男子は沢山いらっしゃいました。※跡取り=男子というこの現代民法を無視した記述をお許しくださいね。

「おハル」から更に遡り、その母「おエイ」さんは、山本家に嫁ぎ、2人の男の子と3人の女の子を産みました。山本家にはもともと「おエイ」の姉が嫁いでいましたが、その方は長男となる男の子を産んでまもなく他界したため、妹の「おエイ」が、後妻となって嫁いだとの事でした。「おエイ」さんと姉の子で長男の「ヤタロウ」さんとの年の差は13歳だったと母から聞いたことがあります。

年齢差の真偽はとにかく、山本家に嫁いだ「おエイ」さんは、「ヤタロウ」さんを育てながら、地主で、お茶問屋していた商家の稼業のもろもろを支え、更に夫「えんじろう」は村長、自身の兄弟は府会議員になり、家庭・商売・夫と親族の公職就任、そういった一切の裏方を仕切ることになったようです。

同時に家庭・商売・夫・親族の公職を支えながら、長女「おハル」次男「マサヤ」次女「おムメ」三女「おヤエ」三男「アキラ」と次々と子供を産んでいます。

「えんじろう」は日本初の本格的政党内閣と言われる首相原敬との親交があったらしく、原敬のお庭を創った庭師と山本家のお庭を創った庭師は同じ方なのだという話をなんどか「おハル」から聞いたことがあります。原敬は、教育制度改革を推し進めた首相でもあり、同志社を大学に昇格させています。その影響か「えんじろう」は自分の子供たち、全員を「大学」へ進学させています。明治~大正の時代にあって女子も全て、です。

列車もまだ十分に走っていない時代、「えんじろう」の子供たちは全員それぞれに「下宿」などをしながら大学に通ったと言います。もちろん男子は全員同志社大学。女子は「おハル」「おムメ」は華頂、「おヤエ」は同志社女子大とのこと。

高学歴な息子と娘に恵まれるのですが、長男「やたろう」は商売は継ぎたくないとのことで銀行家となり、その後和歌山の老舗和菓子屋のお嬢様と結婚し和歌山で暮らすことになります。山本家の家業であった茶問屋は「マサヤ」が継ぎ、長女「おハル」は学業なかばの17歳で最初の嫁ぎ先へ嫁ぐことになります。

「えんじろう」が昭和の初めに亡くなり、お墓を建立し三回忌法要をした年に取引先の岡山で「マサヤ」が急死。商売は「アキラ」が担うことになりました。

最初の結婚に破れた「おハル」はその頃の3回目の結婚相手「ケイシロウ」との間に長男をもうけおそらく、大阪の堺あたりで暮らしていたと思われる時期の事です。

次女「おムメ」三女「おヤエ」はどちらも子供のころに股関節脱臼を患い、足が不自由でした。五体満足でなければ結婚はできない存在という今となっては信じられないような差別と偏見を二人もまたその両親も疑うことなく受け入れていたようで、「おムメ」は中学校で裁縫を教え、「おヤエ」は戦後農業協同組合で金融係として働くようになります。

孫の私から見ても「美人」だった「おハル」は、二度の離婚と三度の結婚をしています。明治~大正~昭和初期に繰り広げられていた「おハル」の結婚ー離婚ー結婚、それは三度とも「レンアイ」ではなく「ミアイ」で更にもっと厳しく言えば、親の「ツゴウ」で次々に嫁ぎ先を探されたのだろうと、想像されます。

期せずして山本家のたった一人の男子となり跡取りとなった「アキラ」さんは、末っ子でまだまだ若く、商売をするには、適さない時代に突入する中で周囲から「なめられない」よう父の名「えんじろう」を名乗ったといいます。

「おハル」の三度目の結婚相手で私の祖父「ケイシロウ」は、日本軍御用達の「大手建設業」のやり手の現場監督だったようです。日本軍の進軍に合わせて中国大陸へ渡り、道路を創り橋を架け、その仕事が一段落したのち、「本土決戦」に備えて近畿圏で敵機を迎え撃つための「高射台」の整備に飛び回ってたそうです。

次男で跡取りだった「マサヤ」を失くした山本家は「おエイ」と「おムメ」「おヤエ」そして新たに跡取りとなった「アキラ」を当主として、商売を営なんでいました。

昭和19年、そのきゃしゃで「男前」だった「アキラ」さんに丙種合格で招集令状が来ました。丙種合格とは現役には適さないが国民兵には適するとしたものです。大慌てで、お向かいのお家の縁続きの方と婚礼を済ませた「アキラ」さんは、その年の12月、地元の駅で白い割烹着を着た国防婦人会の方々に「万歳三唱」のもと見送られ、駐屯地のある呉に向かいました。お嫁さんとも言えないような数日間しか過ごしていない女性と、母「おエイ」と妹たちを残して。

「おエイ」はこの時、駅までは行かず家の門前で末息子「アキラ」にこう言ったそうです。

「ここで、わかれるけれどお前は死ぬことならん」。

この「おエイ」の言葉は、白い割烹着で駅に向かう国防婦人会の方がたまたま門の外で立ち聞きし、後日私の母に教えて下さり、私は母から聞きました。

三度目の結婚相手と、大阪堺で暮らしていた「おハル」ですが、戦局はどんどん厳しく、特に日本軍から仕事を受注していた「ケイシロウ」は堺のような重要都市で暮らすのは危ないことを理解していたのか、昭和20年3月、私の母「ヨシエ」と二つ違いの兄「ヒロカズ」を、京都の「おエイ」たちが住む家に疎開させました。

中学生だった「ヒロカズ」と小学生の「ヨシエ」たちの存在は当時70代「おエイ」と口はたっても十分動けない「おムメ」「おヤエ」たちにとって、格好の労働力だったようです。

畑仕事やおさんどん、区単位の勤労奉仕に「ヨシエ」も「ヒロカズ」も駆り出されはしたものの、食べ物には困らない日々だったと言います。

そんな昭和20年7月のある日、家族みながお風呂に入り、家の外に床几をだして夕涼みをしていた時、誰もいない離れの呼び鈴がなったそうです。その呼び鈴は「アキラ」さんがお客様が来てもすぐわかるようにと、商売をしていた離れの引き戸に取り付けたものでした。もちろん離れをみても誰もおらず、その日はネズミの仕業?かなと言いながら寝たそうです。

戦死広報が届いたのは、戦後なのか7月の内なのか聞き忘れたのですが、それから間もなく戦死広報届きました。丙種合格だった「アキラ」さんをのせた軍艦はフィリピンへ向かう途中の沖合で沈んだそうです。

終戦からしばらくたち、遺骨を渡すので迎えにこいとの連絡が当局から入りたった一人山本家の血を引く男子となった当時中学生の「ヒロカズ」が遺骨を迎えに行きました。「ヒロカズ」が受け取った遺骨が入った白木の箱は首から下げるとカラカラと音がし、家に帰って開けてみると中には石がひとつ入っていたそうです。

「おエイ」はその還ってきた遺骨でお葬式をあげました。

そして、誰が言うともなく、7月のあの夜、離れの呼び鈴を鳴らしたのは「アキラ」さんで、「アキラ」さんはあの時、「おエイ」さんとの約束を果たそうと家に還って来たのだと家族の皆が納得するようになりました。

多くの日本軍の方々が「靖国で会おう」を合言葉に戦禍にのまれ、尊い命を散らされました。そのことを否定するものでは一切ありません。ただ、靖国ではなく母の元に還ることを選択した魂もあったということ、そして戦争へ向かう道と戦争そのものが多くの悲劇を生む道であり、戦死された方だけではなく、広く周辺の家族~親族の心にも深い傷を負わせるものであるということを知って頂ければと思います。

その後、「おハル」と「ケイシロウ」は紆余曲折の後、山本家の近くで居を構え「ヒロカズ」を引き取り、「アキラ」さんに次いで「おムメ」さんもなくした山本家には婿養子を迎え養子縁組で山本家を継ぐべしで「ヨシエ」が残ることになりました。それが冒頭の夫婦養子のお話につながります。

明治~昭和初期にかけていかに隆盛な時期があったとはいえ女子供だけで終戦を迎えた山本家の戦後。母は多くを語りませんが、そこそこ厳しいものだったようです。

今、「アキラ」さんのお墓は、共同墓地の一角にある軍人墓に山本延次郎という名で建立されています。両隣をみるとほとんどの方が昭和20年になって亡くなっていることがわかります。戦後75年、遺族と言ってもその方の直系親族が残っていらっしゃることも難しい時代になりました。

私も母とあと何回、軍人墓を訪れることが出来るでしょう?お盆前に行ったとき、母が「75年たってもなんにも還ってこなかったし、やっぱり死んではってんな~」とつぶやきました。母も、そして「おエイ」さんも本当は「アキラ」さんは生きて戻ってくると微かな希望をずーっと抱いていたことを、その時、知りました。



京都で「知的資産とビジネスモデルの専門家」として、活動しています。現在は内閣府の経営デザインシートの普及に勤めています。