平将門(たいらのまさかど)の祟り(たたり) その3(全3回)


昨日の続きだよ、ポン!

するとね、しばらくたったら、大蔵省でお仕事をしている人たちやら、工事をしている人たちやらが、次々と病気にかかったり、ケガをしてしまったり、死んでしまったりしたんだって。2年間で早速整爾(はやみせいじ)大蔵大臣をはじめ、14人もの人たちが死んでしまったんだ。けが人もたくさん出てね、特にアキレス腱を切ってしまう人たちが多かったんだって。これは将門が足の病を持っていたからだというんだ。皆怖くなってしまって、首塚の上に建てた大蔵省の建物は取り壊して、昭和3年(1928年)3月27日には、盛大に将門の鎮魂祭(ちんこんさい)が行われたんだ。鎮魂祭というのは、将門の祟りがこれで終わってくれるように安らかにあの世の世界に行ってくださいと皆で祈るお祭りのことだよ。でもね、ちっとも効き目がなかったんだ。将門の祟りが続いていったんだ。昭和15年6月20日には、雷がこのあたりに20個も落ちて、大変な火事になってしまった。ちょうど将門が亡くなってから1000年目だったんだって。 
 
河田烈(かわだいさお)大蔵大臣は将門の1000年祭を行って、将門の故蹟保存碑(こせきほぞんひ)を建てたりしたんだ。第二次世界大戦ではこのあたりはすっかり焼けてしまったんだよ。そんで、戦争が終わるとアメリカ軍が日本に来て、いろんな工事をいろんなところでしたんだ。将門の首塚があったところは、アメリカのGHQ(占領軍)のモータープール(駐車場)用地として工事が始まったよ。アメリカ軍のブルドーザーで整備を進めていたんだ。そしたら、大きな石にぶつかって、ブルドーザーは横倒しになって、作業員がその下敷きになって死んでしまったんだ。調べてみたら、その石は将門のお墓の石の石標だったんだって。ほかにも、何人もけが人が出たんだって。そんな訳で、町内会長の遠藤政蔵(えんどうまさぞう)さんが司令部に将門の首塚の由来を説明して、壊さないようにお願いに行ったんだ。GHQのアメリカの人たちも、祟りの事をわかってくれて、
塚は残されることになったんだって。 
 
今も毎日将門の首塚にはきれいなお花が上げられているそうだよ。 
 
おしまい。 

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