伊達政宗(だてまさむね)の梵天丸(ぼんてんまる)その1(全2回)



ポンと昔。
今から400年くらい前の戦国時代に生まれた有名な伊達政宗(だてまさむね)という強い武将の子供の頃のお話だよ。これ本当のお話し。

永禄(えいろく)10年、1567年の8月の暑い夏の日。山形県の米沢城(よねざわじょう)で伊達家(だてけ)17代目の男の子が生まれました。お父様は16代目の伊達輝宗(だててるむね)24歳。お母さま義姫(よしひめ)は20歳です。ちょうどこの年は織田信長(おだのぶなが)は34歳、豊臣秀吉(とよとみひでよし)は32歳、徳川家康(とくがわいえやす)は26歳で、これらの武将たちは戦いに明け暮れている真っ最中でした。輝宗(てるむね)はこの戦国の世を生き抜けるように立派な男の子が生まれますようにとお坊さんの長海上人(ちょうかいしょうにん)に湯殿山(ゆどのさん)へ参って祈りを捧げてくるようにと頼んでいたのです。長海上人は湯殿山の奥の院(おくのいん)に湧き出るお湯に幣束(へいそく)梵天(ぼんてん)と言われる棒の先に布(きれ)のついてものを浸して祈ったのです。その梵天を義姫のお休みになるお部屋の天井に置いたところ、夢枕(ゆめまくら)に満海上人(まんかいしょうにん)が現れ、男の子を与えると言われたのでした。

満海上人とは、昔から生き仏として崇め(あがめ)られた、徳の高い隻眼(せきがん)のお坊さんで仙人のような神通力(じんつうりき)を持つと信じられていました。隻眼とは、片目という意味です。仙台の経ケ峰(きょうがみね)というところで修業を
続け、亡くなった後も、この峰に祀られて(まつられて)いて、この地方では誰一人、知らない者がない有名なお坊さんでした。
「お殿さま。こちらの若君は満海上人の生まれ変わりでございます。梵天丸(ぼんてんまる)と名付けましょう。」
と長海上人は言いました。信心深い輝宗は、大層喜んで、まだ生まれたばかりだというのに準備を始めました。梵天丸の学問の先生として、山梨県の甲州から全国でも有名なお坊さんの、快川大和尚(かいせんだいおしょう)の一の弟子の虎哉禅師(こさいぜんじ)を招くことにして、住まいとする資福寺(しふくじ)の建築に取りかかりました。

今日はここまで、また明日。ポン!

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