宝石 ダイヤモンドとユダヤ その関係性
ダイヤモンドは永遠の輝き。ある年代より上の人には、耳に馴染みのあるフレーズではないでしょうか。
これは、ダイヤモンドのシンジゲートを牛耳る「デビアス社」によって、1947年につくられたキャッチコピーです。
このキャッチコピーは、日本でもテレビCMで流れダイヤモンドが結婚指輪の定番になりました。デビアス社は、このコピーによってダイヤモンドのマーケットを拡大することを狙い見事にその戦略が、はまったのです。
このデビアスという会社は、ユダヤ系の会社として知られています。ただ、ダイヤモンドとユダヤ人の関わりはこのデビアス社だけではありません。近世以降、ダイヤモンドを扱う人々の中でユダヤ人が占める比率は圧倒的に高かったのです。
もともとユダヤ教を信じるユダヤ人は、キリスト教社会の中で農業や手工業から排除されていました。そのため彼らが従事するのは、主として金融業でした。現在とは異なり、キリスト教社会では、金融業は卑しい産業だとみなされていたのです。
ダイヤモンドに関わる仕事もそれに似た扱いでした。ダイヤモンドは、18世紀になるまではインドからヨーロッパにもたらされるものでした。そのダイヤを研磨し、そして販売していたのがユダヤ人だったのです。
19世紀末の帝国主義時代になると、ダイヤモンドの主な産地は南アフリカになります。南アフリカで採れたダイヤモンドを加工し、欧米諸国に輸出する主力となったのもやはりユダヤ人でした。
人間には、「贅沢をしたい」「他人よりも豪華な暮らし・華美な装いをしたい」という欲望があります。ダイヤモンドは、その欲望を相当に満たすことができる数少ない商品と言えます。
ダイヤモンドの生産地域
産出量で見れば、ロシアがもっとも多く、ついでアフリカのボツワナ、カナダ、アフリカのアンゴラ、南アフリカ、コンゴと続いています。ダイヤモンドは、アフリカ大陸で多く産出されています。
しかし先ほど触れたように、かつてダイヤモンドはもっぱらインドでだけ産出されるものでした。そのため当時は「インド石」などとも呼ばれていたようです。
これが変わったのが18世紀です。1725年にブラジルでダイヤモンド鉱床が発見され、ブラジルも産出国となりました。さらにそれから1世紀半が過ぎると、今度はアフリカ大陸でぞくぞくとダイヤが採掘されるようになります。
国際商品となったダイヤモンド
かつて、ダイヤモンドはヨーロッパでは比較的古くから知られていたとされてきました。旧約聖書の出エジプトで言及され、「エレミア書」でも書かれているとされていたのです。
ところが、この説は現在では否定されています。
ただし、古代ローマのプリニウスは、その著書『博物誌』において、ダイヤモンド峡谷の伝説について述べています。「ダイヤモンドは、東方の深くて近づけない峡谷にあり、それを、毒液を分泌する蛇が守っている」と述べています。
さらにプリニウスは、宝石にかぎらず、世界の価値ある物のうちで、「最高の価値を与えることができるのはダイヤモンドだけだ」といっています。
プリニウスは、現実にダイヤモンドを見たことはなかったと思われますが、ローマ社会にダイヤモンドが知られていたことは確実でしょう。
古代世界のダイヤモンドの大半は、南インドのゴールコンダに位置する一つの大きな鉱山から採掘されたものでした。
ただ古代においては、現在のようにダイヤモンドを精緻にカットする技術はありませんでした。ダイヤモンドの輝きは、あのカットの技術が生み出しています。原石のままのダイヤモンドは、決して美しい宝石とはいえません。ですから古代では、ダイヤモンドが他の宝石よりも高く評価されていたとは、必ずしも言えないのです。
ダイヤモンドのカットの方式として、もっとも代表的なものは正八面体です。
『ジュエリーの世界史』によれば、ダイヤモンドの美しさは反射と屈折という二種の光学現象から生じます。
反射とは、光のダイヤモンドの表面からの照り返し屈折とは、光がダイヤモンドのなかに入ってそこで折れ曲がって再び表面から出てくる現象を意味します。
そして、初期のダイヤモンドの研磨が目指したのは、この反射を良くすることでした。すりガラス状になっている原石の表面を削って、光沢のある面としたのです。この種のカットは、インド人ではなくヨーロッパ人の職人によって実現したと考えられています。
つまり、インドで産出されたダイヤモンドがヨーロッパで研磨やカットが施され、一部の人々に愛好されるようになって初めてダイヤモンドは商品価値の高い貴重な物質になったと言えるでしょう。その流れが始まるのは、ヨーロッパ人が比較的頻繁にインドを訪れるようになった大航海時代と考えるのが自然でしょう。
ダイヤモンドとヨーロッパの拡大
近世から近代にかけての世界は、ヨーロッパの対外進出によって大きく変化してきました。ヨーロッパが対外進出することで、世界各地に植民地が形成されました。このときヨーロッパ諸国は、進出先でいくつもの食料さらには天然資源を入手しました。ダイヤモンドもその一つでした。
しかもダイヤモンドの入手、そして加工販売には、国際的な商人のネットワークが必要とされました。
インドで採掘されたダイヤモンドは、国家なき民で商業に従事していたアルメニア人、セファルディム(イベリア半島を追放されたユダヤ人)などのネットワークを通じてヨーロッパに輸送され、さらにヨーロッパで東欧系のユダヤ人であるアシュケナージらが研磨していました。
ただし、その研磨は家内工業の枠を出ることはありませんでした。
ブラジルでダイヤモンドが発見されると、その貿易はポルトガル王室が独占します。同時に世界のダイヤモンド市場は、インドとブラジルによる競争になったのです。
ヨーロッパにおけるダイヤモンドの取引市場として重要になった都市は、北ヨーロッパではイギリスのロンドン、オランダのアムステルダム、現在のベルギーに位置するアントウェルペン(アントワープ)、ポルトガルのリスボン、地中海ではイタリアの自由港(税金がかからず、自由に出入りできる港)リヴォルノ、さらにヴェネツィアなどです。
ロンドンとアムステルダムは、ヨーロッパを代表する貿易港・都市であり、さまざまな商人がこれらの都市を訪れました。そしてアントウェルペンは、研磨の技術が発展し、ダイヤモンド取引の中心の一つになりました。
リヴォルノに関しては、ダイヤモンドがインドのゴアのヒンドゥー教徒により輸出されており、その代わりにリヴォルノのユダヤ人がゴアにサンゴを輸出するという関係が出来上がっていました。
インドに加えて、ブラジルという産出地が登場したことでダイヤモンドの産出量が激増します。そしてこれらの都市には、ダイヤモンドの加工工場が作られ、ヨーロッパにダイヤモンド産業が芽生えることになりました。
こうした構図に、さらに大きな変化が訪れます。1866年に南アフリカでダイヤモンドが発見されたことが、そのきっかけになりました。
実はこの頃には、インドやブラジルの鉱床ではダイヤが枯渇してしまっていました。タイミングよく、南アフリカで莫大な量のダイヤモンドが産出されるようになったわけですが、その産出量は従来の流通量をはるかに上回っていたのです。
その量は過剰とも言えるほどで、ダイヤモンド価格は値崩れを起こしていました。
そこにイギリスの牧師の息子で、南アフリカで坑夫をしていた人物が現れます。後に南アフリカで政治家となるセシル・ローズです。
ローズはダイヤモンドの価格を維持するため供給量を調節する必要性を痛感し、1880年「デビアス合同鉱山株式会社」を設立します。
ローズは、ロンドンのユダヤ系の財閥・ロスチャイルド家の融資を受け、アフリカのダイヤモンド鉱山を次々に買収。ダイヤの産出をデビアス社に集約することで価格統制を図ろうとします。
その目論見は成功しました。1900年にはダイヤモンド原石の世界生産の90%を支配したと言われています。世界のダイヤモンド市場を牛耳ることになったセシル・ローズは巨万の富を築きます。
同時にダイヤモンドの加工工業を支えたのは、この当時もやはりユダヤ人でした。現在でも、ユダヤ人はダイヤモンド加工の中心にいます。
さて、世界のダイヤモンド産業の頂点に君臨したデビアス社ですがセシル・ローズが亡くなった後、アフリカ大陸ではデビアス社の勢力が及ばない巨大鉱山が発見され、デビアス社の支配力は徐々に低下してしまいます。
そうしたなか、金生産を手掛けるアングロアメリカン社がデビアス社の筆頭株主となります。
そして1930年、デビアスの会長としての乗り込んできたのがアングロアメリカン社の創業者アーネスト・オッペンハイマーです。
オッペンハイマーは、ドイツ系のユダヤ人でローズのように商才あふれる人物でした。巨額の資金を動かせるオッペンハイマーは、ローズがかつて行ったように、同業者を次々と買収します。
こうして、再びデビアス社が世界のダイヤモンド市場を牛耳る体制が確立されたのです。
現在のイスラエル経済とダイヤモンド
ユダヤ人が、1948年に建国したイスラエルにおいても、やはりダイヤモンド産業が占める比重は大きいものになっています。
ダイヤモンド産業は、現在もイスラエル経済を支える大きな柱になっていますが、これは長期にわたりダイヤモンドの貿易や加工、産出に携わってきたユダヤの先人たちの“遺産”とも言えるのです。
ユダヤ人の経済、経営手法は現代にも精通しているものがありますね。
いってらっしゃい!
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