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【小説】行けるところまで、東へ

今週の金曜日は最悪だった。
誰に頼まれたことも、どんな仕事も全く手につかない。
趣味の執筆すらも全く調子が上がらず、三行も書けないまま断念。

「仕事にならない」とはまさにこのことだと思った。

おまけに離れた街に暮らすきみは「今日飲み会、電話できない」とのこと。夜のはじまりと呼ぶような時間には、すっかりふてくされて眠っていた。

消し忘れたシーリングライトが僕の目をこじ開ける。
寝る前に繋げていたiPhoneのバッテリーは100%だ。
午前4時32分の表示が、僕の心をゆっくりかき混ぜた。

なぜだろうか。
なんだかすべてがどうでもよくなって。
「どうでもいい」はどうでも「良い」なのか分からないけれど、ひとまずマイナスな感情が消え去ってしまったのは確かだから、まぁいいかの「いい」なんだろう。

寝転んで、まだぼやけて見える暖色の光を全身に受けながら、ふと。

東へ行こう、と思った。

実は突然の思い付きではない。
前々から僕は、「いつかきみが住むその街に行くよ」と電話越しに告げていた。でも腰が重くて重くて仕方がなかった。
話に聞くその街は、マップで見る距離よりももっと東にあるような気がして、なんだか近寄りがたいとすら思ってしまった。

ほんとうは、きみのその新しくて素晴らしい生活について知るのがとんでもなく億劫で、そして怖かっただけだ。

でも、今だけ、今なら行ける気がした。
1時間後にはもう変わっているかもしれないただの気分。
ただの現実逃避だと言ってしまえばそれまでだが、今はその逃避にすら意味があるように思えてしまう。

もちろんこの衝動を受け流し、睡眠欲に身を委ねても良かったのだけれど、なにか悪戯心に近いものが強く僕を動かした。

財布、コンタクト、フィルムカメラ。
最低限の荷物だけサコッシュに入れ、家を出た。

エントランスの外はいつもより暗くて、澄んでいた。
夜露が草花を濡らすしっとりしたにおいと、まだ宵の顔をした細い三日月。

久しく乗っていなかったバイクを引きずり出し、ヘルメットのあごひもを少しだけ強く締めた。 

アイドリング音と、オイルのにおいが大学時代の記憶を一気に呼び戻す。
よくきみをタンデムシートに乗せて、夜中の海沿いを走ったっけ。
ぬるーい夜にバイクで涼むの、好きだったなあ。

エンジンが暖まったら、この空気をかき乱さないようにできるだけゆっくり発進する。
なんだか儀式をとりおこなっているような気分だ。
流れる街灯やコンビニの明りをまとって、次第に朝へと移ろう藍色に溶けてゆく。

国道に出ると、トラックがたくさん流れはじめた。
一本外れたら、途端に落ち着いた。
ヘッドライトが心もとなかった。
道ばたに大きな野良猫がいると思ったら、新聞配達のおじいさんだった。

どこかの町はずれで、ついに日が昇った。
朝靄を貫いて角が取れた朝の光は、やさしく茶畑に降り注ぐ。
その欠片を、少しだけ分けてもらう。

僕は何も言わず、ただ東を目指した。
ナビを設定しなくても、間違っていない自信があった。


このままずっと走り続けたいと思っていたら、眠気と10時の日差しにやられて白けた。

気づけばもう、きみの街にいた。

二日酔いのきみからの返信を待つ間、ネットカフェで眠った。
無音で設定したアラームの3分前に起きたら、なんだか書く気が戻ってきた気がした。
またか。僕のトリガーはどうやら睡眠らしい。
ちゃんと寝れてるはずなのにな。

まぁいいや。たとえ思い込みだっていい。
今ならきっとなんでも書ける。

ドリンクバーで少しぬるいコーラをつぐ。
氷は入れない。
ブースの薄っぺらい引き戸を閉め、丸まった伝票を睨んだ。
残り1時間ちょっと。
3時間パックの時間ぎりぎりまで粘ってみよう。

そのうちに、きみが来るはずだ。
きみと目が合ったら、まずはなんて言おう。
それから、どんな話をしよう。

東へ向かうというただそれだけが、こんなにも僕を動かすなんて。

前にしか進めないバイクにまたがり、東だけを追い続ける。
ずっと走り続けたら、いつかこんな清々しい気持ちで家に帰ってこられるようになるのだろうか。

東に逃げ続けたらまた元の場所に戻るなんて、とんだ皮肉な話だ。
声にも出さず、僕はひとり笑った。

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