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寺山修司の短歌「一粒の向日葵の種」

一粒の向日葵ひまわりの種まきしのみに荒野をわれの処女地と呼びき

『寺山修司全歌集』142頁

『短歌研究』の「50首応募作品」で特選を獲得したときの歌の一つ。『われに五月を』にも、『空には本』にも収められている。寺山修司の歌の中でもよく知られている一首だ。

■語句

まきしのみに――「まいただけなのに」。「まく」の連用形「まき」に、過去の助動詞「き」の連体形「し」がついている。「のみ」は連体形に接続。

処女地――誰のものでもない未開拓の土地

呼びき――「呼んだ」。「き」は過去の助動詞。

■解釈

まだ誰の手も入っていない未開拓の土地に、一粒向日葵の種を播いた。ただそれだけなのに、広い荒野全体を自分の土地だと宣言した。そういう意味の歌だ。

この歌は「呼びき」と過去形で終わっている。「呼ぶ」ではない。つまり、「荒野をわれの処女地」と呼んだ過去の自分を振り返っている。また、「まきしのみに」の「のみに」は、現在の自分が、そう呼んだかつての自分を苦笑しつつ顧みていることを示している。

かつての自分とはいつ頃の自分だろうか。おそらく思春期頃、「処女地」という言葉を初めて覚えた頃のことだろう。

思春期には体中に生命力が満ちわたり、自分はどんなことでもできるのだという思いが胸に広がる。だが若者は、この世界でまだ何も成し遂げてはいない。したことと言えば、ほんの少し。たとえば、一粒の向日葵の種をまいたことだけ。だがそれだけでもう、広大な荒野を獲得した気になる。若者の胸に宿る野望はそれほど大きいのだ。

そのような野望を抱いていたかつての自分を、現在の自分が振り返っている。だが、かつての自分を無邪気だったとほほ笑ましく見ているわけではない。

何も成し遂げていなくても、そのような野望を抱くことこそが青春の特権であり、それだけですばらしい――そう考えているはずだ。現在の「われ」だって、まだ青年なのだ。

青年は、世界制覇の野望が自分の中に確実に存在することを知っているし、またそれを肯定してもいる。どこまで行けるか、青年はこれからそれを試してみようとしている。

■他の人のコメント

◆原田千万ちかず:1988

一粒の向日葵の種子を播いただけですが、ただそれだけでもこの荒れ果てた野原を、私の処女地、つまりは私の輝かしい未来が広がっている地と呼びたい気がします。(372頁)

◆大岡信:1991

青年前期の、孤独でしかも昂然たる自負心、前途に思いえがく自らの未来への、厳しいがしかし自己愛によっていかにも甘美な展望は、早くも彼の一生を暗示していた。(39頁)

◆本林勝夫:1994

(……)未知の世界に夢をかける少年の気負いを正面から歌っていて快い。(……)寺山は「麦藁帽」や「向日葵」を好んでとり入れているが、夏の季節や燃える太陽のイメージは若者の世界の象徴だった。荒地はやがて太陽の種子から生まれた大きく豪華な花々で蔽われるだろう。「まきしのみに」という一句に不敵な自負をこめた少年の旅立ちの歌なのである。(18頁)

◆喜多昭夫:2013

寺山といえば、真っ先に思い出す歌。一読、清涼な風が心の中を吹き渡っていく。初々しく、みずみずしい。青春歌の決定版といってよいだろう。一粒の向日葵の種をまいた。たったそれだけのことであるが、「荒野」が「処女地」に早変わりする見事さに、しばし茫然としてしまう。成長著しい青年にとってみれば、なるほど「荒野」ほど「処女地」と呼ぶにふさわしいものはないだろう。青年は大きな一歩を踏み出そうとしているのだ。(64頁)

◆俵万智:2013

人生の節目節目、特に何かを選んで決断するときに、この歌が支えになってくれている。言葉のつかい手として天才だと思う。独特の世界でありながら、愛誦性に富むところも素晴らしい。(65頁)

「何かを選んで決断するときに」? 何かを新しく始めるときにということか。まだほんの少し足を踏み入れただけ、でもここには私にとって新しい未知の世界が広がっているという思いが満ちてくるということか……なるほど。

◆藤原龍一郎:2022

荒れ果てた野に向日葵の種子をまき、自分の処女地とする。雄々しくまたみずみずしいマニフェストとしての一首である。寺山修司はこの一首を掲げて、世に登場したと言ってよい。(45頁)

藤原はまた、「処女地」という語はツルゲーネフの小説の題名からとられていると見ている。(55頁)。

◆ネット「短歌のこと」:2021/7/15

たった一つの種をまいただけなのに、だだっ広い荒野は、自分にとっての処女地であり、やがて向日葵の花によって占拠されるだろうという、青春期の自負心が主題です。/ただし「…のみに」には、行き過ぎた青春期の自負をかえりみる、作者自身の理性的な認識も含まれています。

■おわりに

俵万智は「愛誦性に富む」言っていたが、どういうことなんだろう。

「一粒の」と「向日葵の種」のヒ音が頭韻となっており、流れるように進む。「まきしのみに」は六音で字余り。平仮名を一つずつゆっくりと読む。そして第四句と第五句はまたすらすらと流れて収束していく。こんな感じか。

久しぶりにこの歌を読んで、高校生のとき、先生から、クラーク博士の有名な言葉「少年よ、大志を抱け」の「大志」の原語"ambitious"は「野心的」という意味だ、と聞いたことを思い出した。当時の僕はすぐに感化され、よし、僕も野心を持とう、と思ったのだった。

寺山のこの歌も昭和的な気がする。今はどれだけ受け入れられるのだろうか。

■参考文献

『寺山修司全歌集』講談社学術文庫、2011

大岡信『第九 折々のうた 』岩波新書、1991

喜多昭夫 →『短歌研究』2013年6月号

俵万智 →『短歌研究』2013年6月号

原田千万 →井上靖ほか監修『日本文芸鑑賞事典―近代名作1017選への招待―第17巻(昭和30~33年)』ぎょうせい、1988

藤原龍一郎『寺山修司の百首』ふらんす堂、2022

本林勝夫「〈評釈〉寺山修司の短歌20首」、『国文学 解釈と教材の研究』学燈社、1994年2月号、14-28頁

ネット「短歌のこと」:2021/7/15
https://tankanokoto.com/2020/08/hitotubuno.html

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