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日記・ポリフォニー・門:ジッド『狭き門』からモノローグ・オペラ「新しい時代」へ(7)

7.

「狭き門」が何故、例外的な「成功」となったのか?ここでいう成功は、いわゆる作品としての出来といった側面からの評価を伴う。 ジッドの時代が過ぎ、時代遅れの過去の作家となり、ジッドの他の作品が(おそらく「田園交響楽」を例外として)ほぼ読まれなくなったとき、 だが、「狭き門」のみが生き延びるとしたら、「法王庁の抜け穴」や「贋金づくり」を評価し、あるいは「背徳者」「地の糧」を評価する側からすれば、 それはあまりに一面的な、歪んだ受容ということになるだろう。だが、この受容の歪みは、おそらくは作者自身が持っていた偏奇に由来するものだし、 たとえばポジ・ネガの関係にあるとされる「背徳者」との比較においてさえ、著しくバランスを欠いているのは、ある意味で当然なのだ。

ジッドの処女作が「アンドレ・ワルテルの手記」であることには留意して良い。決して彼は反対側から登り始めたのではないし、 後の彼が明確に作品としての出来に批判的であったとしても、そして確かに作品としての出来の評価としてはそれは全く妥当であるとしても、 作者が書く「理由」を、衝動の出所を示しているには違いない。それはいわば「狭き門」の原型なのである。ある意味では、書きたい衝動に 忠実で、だが書くことそのものが要求するある種の自己放棄、優れた作品が作者に要求するそれに対しては従うだけの力を持たなかった彼は、 回り道の挙句に、「狭き門」によって、最初に書きたかったことを書き遂せてしまったのだ。その衝動の最後の発露が「田園交響楽」であり、 彼は芸術には奉仕し、時として欺瞞に満ちた自意識に対して(卑劣にも)誠実たろうとし続けるが、彼の奥底の彼自身すら見通すことのできない 深部に潜んでいた衝動はもう涸れてしまったかのようだ。

「アンドレ・ワルテルの手記」との対比において、アンドレ・ワルテルの場合には書き手が死に至ったのが、「狭き門」では、アリサが 死に至るという役割の交替が指摘されることがある。この指摘は妥当だが、だが、それは単なる入れ替え操作であり、結果は同じというわけではない。 「狭き門」では、それが結局のところ「私」の観念であり、記憶であったとしても、「理念」はアリサという他者の側に移動する。 後に田園交響楽では再び語り手自身が、ただし今度は手記ではなく、日記という体裁で物語の枠づくりをするのに対し、「狭き門」では 日記を残すのはアリサの側であり、それゆえそれは語り手の「私」の同時性を逃れ、私がかつて同時性の裡にいて、だから決して辿り着くことが できない絶対的な他者の過去の痕跡たりえている。それが作品という虚構の中であれ、作品自体の枠として、自分を虚しくしてアリサについて 書くこと、私がどう思っていたかはあくまでも事後的にアリサの日記との照合を行うために語られるに過ぎないのだが、その点を重視せずとも、 少なくとも作品中における声の二重化が、多声性が存する点は決して些末ではない。逆説的に、真のポリフォニー、中心的な視点のない、 等価な複数の展望を意図したらしい「贋金づくり」が、それでもある作者の作品として企まれている点において、その多声性が却って衝動を 中和してしまう方向に働いているのに対し、ここでの多声性ははっきりと非対称であり、一見したところ冒頭にそのように宣言されるレシであるかに 見えて、最後に挿入されるアリサの日記によって、過去の、今や幽霊としてのアリサの声を直接響かせる構成により、展望主義の不毛と、 自己意識の欺瞞性の両方から奇跡的に逃れえているのだ。ここでの日記が力を持つのは、寧ろこれがレシの空間の中に埋め込まれている「外部」だ からであり、その制約のないところでの日記は単なる媒体の多様性に基づく選択肢の一つに退化してしまっている。

アリサの声は書き手の声そのものではない。アンドレ・ワルテルの手記とのこの当たり前の相違が、だが結果的には全く違った結果を もたらすことになる。性の差異(ジッドにおいては、それ自体、抜き差しならぬ意味を持ってしまう)がもたらす異化作用に留意すべきなのだ。 注意すべきは、初めから女性が語り手の作品とも異なるという点である。 しかもそれは、ジッドの最初の書くことの衝動をもっとも自然に、自発的な仕方で発露するための装置ともなった。そうした幸運の重畳が 「狭き門」を例外的な作品にしているのだ。中に空隙が穿たれたレシ。だがその空隙こそが作品を成り立たせている構造的な 特異点なのだし、そのことによって、「狭き門」という作品自体が、ジッドの作品系列中のある種の空隙、構造的な特異点たらしめているのだ。

そしてその構造は、内容上の問題やら事後的に作者自身が説明した主題の問題に対しても無関係ではない。


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