"斜陽"に覚悟と勇気をもらった話。


夕方を表す言葉は色々在る。

逢魔が時。昼と夜のうつりかわるとき。

『「誰そ、彼」時「そこにいる彼は誰だろう。良く分からない」といった薄暗い夕暮れ』『魔物に遭遇する、あるいは大きな災禍を蒙ると信じられた』....wikipedia

なんだか京極夏彦がうかんでくる。

昼と夜のあわいを示すなら、薄暮、もある。
こちらはヨコハマを取り仕切るあの武装集団...うん。

太陽が西に傾いて、夕陽が斜めに射してくる。影が長くのびる。
まるで 写真に写るあの子が、可愛らしく首を傾げるように。淡い光を放って、消えていくあの時間。

昼にも夜にも 光にも夜にも染まりきらず中途半端ながら、なくてはならない グレーのようなせまい境界。昭和の青春スポ根漫画には必須の。(イメージ)

本屋さんが、斜陽?

さて、前置きが長くなったがその斜陽。先日のイベントで久しぶりにその名を聞いた。note主催イベント『~本屋の未来を考える~』(うろおぼえ)

登壇者の方がおっしゃっていた『斜陽だから応援する?』が頭を離れない。

斜陽。パッと出てくるのは太宰治だ。没落していく華族に一片の光を描いた小説(うろおぼえ)。
この作品でこの言葉と出会い、なんとも品が漂う言葉が なんだか綺麗だと思った。
とても 淡く 蝋燭の火が風に吹かれて消えてしまうような、かよわいイメージのある 繊細な言葉。
(斜陽という言葉に対してのイメージ。かなり太宰治に引っ張られているけど )

だから正直、本屋さんが、斜陽?と衝撃を受けた。


私にとっての本。(というか紙の本)

私は、本が好きだ。本というか、紙の本。
手に持って、質量のある、ページがめくれて、かすかに音のするあれ。
あれが、どうしようもなく、好きだ。
教科書とかも スキャンしないでそのまま。
(余談だが 医療系学生は 本をデータスキャンしてタブレットに入れている人多いよね。多いし、重いし。)
画面越しだと目が疲れるのもあるが(近視乱視持ち) 部屋にいても一人じゃないと思う。しゃべらないけど、そこに在るだけで自然と目に入ってくる。意思が弱い私は そうやってじーっとみつめられると もうわかったよと ひとりぐちながら 手を伸ばして渋々ページを繰ることもある。
端末だと 自分の意思でタップしないと目に入ってこないしね。意思が弱いと生きにくい時代になりつつあるのかな。


見えてないもの、見えているもの

...話はそれたが、本というのは 物言わぬ隣人のような、家族のような、友人のような、近所のお節介おばちゃんのような...私にとっては必需品で。
だから、えーっとおもった。
そんなに危機的なのか、と。

本屋さんの社長さんが、現場の当人が云うのならそうなんだろう。他の業界、とかく内部事情はよく知らないものだ。自分が触れていても 見ているつもりで見えていないものがある。ゾッとした。
細部だけ見ないで、大枠で捉えなさいと、高校の時に日本史の先生に呆れられたものだった。
ぬるま湯に浸かった蛙のように、なにも知らないまま消えていくのだろうか。
アプリがサ終宣告されたときのショックがよみがえる。


覚悟と勇気と楽しさと、

西にかたむく太陽は 一旦沈まないと 昇ってくることはない。先の太宰治の 小説から 斜陽には 没落、という意味もある。
後戻りできない、定められた『今日』の死。

"本屋さん"はこれからどうなっていくのだろう。
話の流れ的には支援者に向けた言葉だった気がするが
"斜陽"といわれてからでは遅い、と 自分達を鼓舞するような?そんな意図もあったのだろうか。

緩和ケアでは それとなく 残りの月日を伝える。伝えることで、覚悟や準備や色々をするために。(*)
陽が昼であるうちに、深まる前に これからどうなるか、考えて話し合っておくこと。
望みは捨てずに 出来ることを。講義や本で学んだ。
今も学び続けている。


自分も、楽しみながら やれることにチャレンジする。覚悟と勇気をもらった気がする。

登壇者のおふたりと 司会の方の たのしそうな顔をよく覚えている。

(*エリザベス・キューブラー・ロス『死ぬ瞬間-死とその過程について-』緩和ケアの聖書とよばれる本。まだまだよくわからないところもある。学び始めたばかり。)


言いたいことがうまく言えてないような気がするな・・・・。言葉にするのも まだまだ。

自分がじぶんであれますように。そんな世界がひろがるように。見てくれてありがとう。