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日本と学問の将来

私たちが今、学校などで普通に接する学問その大半は、日本固有の感性に基づいたものではなく「主としてヨーロッパ(西欧)から入ってきたもの」であって、しかも只なされるがまま、西欧的感性(例えば二元性や論理性)にますます日本に古来から在る感性は侵食され、風化の一途を辿りつつある。これは由々しき事態であり、戦う必要はないが「抗う」必要はあるのではないか、と私は考えている。

戦わない。だが、やられっ放しでもいけない。私は抗っていたい。

これが、私の奥底、根本にある信念であり、私を突き動かす情熱の本体である。この思いは、大学生の頃にはっきりと自覚を持った。

批評家・小林秀雄は「学生との対話」という本の中で、繰り返し科学について発言している。科学は西欧で発達したもので典型的な例であり、むしろ西欧文化における心臓と言ってもよいと思う。

①物を本当に知るのは科学ではない、物の法則を知るのが科学です。

②科学は認識ではありません。

ただ、僕らは科学に負けてはいけない。科学は、本当に物を知る道ではなく、いかに能率的に生活すべきか、行動すべきか、そういう便利な法則を見出す学問なのです。

④私がこうして話しているのは、極く普通な意味で理性的に話しているのですし、ベルグソンにしても、理性を傾けて話しているのです。けれども、これは科学的理性ではない。僕らが持って生まれた理性です。科学は、この持って生まれた理性というものに加工をほどこし、科学的方法とする。計量できる能力と、間違いなく働く智慧とは違いましょう。学問の種類は非常に多い。近代科学だけが学問ではない。その狭隘な方法だけでは、どうにもならぬ学問もある。

学生との対話

少し長くなったが、こういう話が載ってあった。小林秀雄が「ただ、僕らは科学に負けてはいけない。」と言ったその言葉に私は胸の内を救われるような思いがする。

私は子供たちを呼び醒ましたいと考えている。学問は、決して教えられたり与えられたりするものではない、と言う自覚さえ共有できれば、それだけでも一切が変わる。私たちが学校などで勉強する学問は、その大半が近代科学の範疇を出ないものばかりだが、それだけが学問ではない。

私たちが、日本民族の一員としての自覚を持って、自らの頭で考え、日本固有の感性を働かせ、学問を創ってゆく、産み育ててゆく立場に変わらなければ、この事態は一向に改善しないのである。

科学は認識ではない。なぜか。知は法則を見出すだけで、認識する力を持たない。認識するのは知の根底にある『情』である。その情が深く豊かなのは、西欧人よりも遥かに日本人である。だから、新しい学問がやれる可能性を持っている存在として、日本人はもっと自信と誇りを持っていい。私はそう考えている。

その上で、数学は独特な存在感を帯びている。多くの人は、数学を科学と近しいものだと考えているのではないかと思う。数学を「科学の言語」とさえ考えている人が世の中にはいる。それもまた、数学を科学的方法という「狭隘な方法」によって研究する視野の偏った見方であると言わざるを得ない。なぜなら、日本には江戸時代に和算というものが発達し、和算は科学とは何の関わりもないという、確たる実例を私たち日本人は持っているからである。

【 数学は実は、科学と独立したものである。 】

決定的なのは、数学者・岡潔が「数学は認識の学問である」と語っていることである。科学という知的な世界に、数学という一つの情の世界さえ、本来は閉じ込めることは出来ない。

数学は今、科学という牢獄に閉じ込められている。だったら今、数学を解放しよう。信念と情熱を持って、若気のエネルギーを注ぎ、この閉塞的な学問の世界に風穴を開けてやりたいと思う。

子供たちよ、ただ受動的に学問を教えられるな、与えられるな。学びから、自分たちで学問を創り、産み育てよう、それが「出来る」という自覚と自信を持とう。

私は子供たちに、そう力強く呼びかけたいと思う。

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