モチベーション -誰かじゃない私になる-
多くの企業から「モチベーションが上がらない社員がいるのでなんとかしたい」という話を伺うことがあります。
人間にはいろんな見方や捉え方があるので、モチベーションが上がらないといわれる社員たちの所以がどこにあるのかを知りたく、実際に彼らにヒアリングしてみると以下のような言葉が出てきました。
彼らから言葉を聴いていて最初に浮かんだのは「アイデンティティ・クライシス」というキーワードです。デジタル大辞典では、
と定義されています。
昨今のような自分がどう感じるかよりも、他人が満足してくれるかにウェートがある生き方(所謂、いいねや好きの数をチェックしたりすることに力を注ぐ)に身を投じていると、このような呪縛に陥りやすいのかもしれません。そしてまた、この観点で考えるならばこの状態自体が今の企業の課題に直結しているようにも感じます。
明確にこれがやりたいという思いがある企業とのお仕事は、それだけでエネルギーを持っている故、多くの意見が出てくるためプロジェクトが活発化します。逆に"なんとかしたんですよ、教えてください"というだけで、基本的には受け身のまま自分達のやりたいことを模索していない企業との仕事は、活力を感じることはありません。これはもはや企業にとっての「アイデンティティ・クライシス」状態だといえるでしょう。
そしてこの状態の時に機能するのが、この場でも何度もお伝えしている「センスメイキング理論」(納得感と腹落ちの理論)だと私は思います。
夏目漱石の言葉
夏目漱石が『私の個人主義』の中で「本当の自分=個性と自分のやりたい仕事」について次のように記しています。
私自身は大学を卒業後に博報堂に入り、マーケティングという仕事を選びました。そこで様々な企業の在り方や戦略を学びながら、そこで働く人、顧客である人間の生き方や幸せの在り方を、商品やサービスを通して学びことが楽しく魅了されていきました。自分の知らない世界をのぞき、自分と相手企業との関係性の中で多くを創造する事が楽しかったのです。
博報堂から独立したのは、当時感じていたヒエラルキー型の組織で生きるよりも、自分のできる未来は独立していくことで成し得ることができると信じたからです。人間の本質を追求することの形を模索したからだと考えています。
加えて森鴎外は仕事のことを必ず「為事」と書いだそうです。その意図は明確。「仕える事」ではなく「為る事」と書いた感覚がないといけないということです。
過去の呪縛
夏目漱石の言葉から学べるのは、これまで重視されてきた思考方法(問題解決型アプローチ)が、限界を迎えているということかもしれないということです。それは他人ゴトからのアプローチだからという所以につきます。
目に見える課題に対して解決する思考法では、データに基づいた意思決定をしても、過去のデータでは市場のニーズはすぐに変化してしまう故に後手後手になってしまう。ましてやデジタル化が進む昨今、その変化の速さは想像以上となります。
数年前に流行っていた"デザイン思考"もそれ自体が創造的でありながら、あくまで問題解決型の為にそのベネフィットは、対前年比5%アップの様な目標値を据えており眼前の値に目が行きがちになっていました。これでは解決へのマイルストーンの見えるもの簡単なもの、やりやすいものだけに取り組んでしまう傾向になります。
私がご一緒させていただいている企業でも、自社にとってやりやすいものから事業や新製品開発をするという会社が多いのが実情です。変えたい、変わりたい、新しいことを、、、ということからスタートしたはずなのに、過去の呪縛から逃れられない。これでは、なかなか知のイノベーションはひきおこりません。もともとイノベーションとは、知の組み替え、変化、変革ですから、エンゲージメントメントアップにはなりにくくなります。
まず自分ゴトで考えることから始まるのです。
"自分ゴト"とは何か
3人の作家、医学者、哲学者の発言から、自分という存在の考え方をみてみましょう。
①作家:平野啓一郎
ここで言及されていることは、野中郁次郎先生や現象学のフッサールのいう主観と主観で対話することによって生じる相互主観のことであり、自分ゴトになるのは対話によってアイデンティティが形成されるとも言えるのではないか、と私は考えます。
②医学者:養老孟司
養老孟司先生の言葉の中に「溶けていく自分」、生物学的な自分とはこの「現在位置の矢印」ではないかという文章があります。脳の中には「自己の領域」を決めている部位があるというのです(これを「空間定位の領野」と呼ばれています)。
つまり自分自身を他人によって知るという視点は、平野啓一郎氏と同じであり、他人と同じところを探すとは相互主観によって主観と主観で話し合って、共感領域を知ることが自分からを知る上では大切ではないかと記しているのでしょう。
私が開催しているワークショップでは、目的を創出した後で、グループ編成する際には、他人と同じような意見、共感する方で対話します。空間定位の領野が崩れると人間は液体になる。つまり目的を定めることは、自己を定める状態に極めて有効な方法ではないかと、解剖学の視点からも考える次第です。
③哲学者:西田幾多郎
西田幾多郎氏は、日本で体系的哲学を体系化した人物です。キーワードは「純粋経験」。純粋経験とは個人的、主観的体験を超えた自己の超越です。
それは真理を実在として認める西洋哲学への東洋的極めて日本的アプローチ方法だと考えられています。
実はこの西田幾多郎のアプローチを敷衍したのが私の師でもある野中郁次郎先生の"暗黙知"であり,センスメイキング理論の「認識論的相対主義」と極めて似ています。
私達は「私が世界を感じる」という立ち位置にいながら、人間が主語になる世界に生きています。しかし西田幾多郎氏はそれを逆転させて「世界が人間に何かを感じさせている」という世界へ導きます。
これは,西田氏の親友であった鈴木大拙氏がいう『「人が花を見る」時、同時に「花が人を見る」ということが起きている』という日本人の思考方法と同じかもしれません。主体と客体もない状況です。
美術館の展覧会にいくと、妙に疲れたりしませんか?何百年も前に描かれた作品がどうしていまだにあんなに魅力を発しているのか。この疲れる要因から考えるに、実は作品を観にいっている気分だった私たちは、作品たちに観られているのかもしれません。だから疲れるのかも、と。
この境地が、そのものをありのままにとらえる"自分ゴトで考える"対象者のアプローチに必要だと考えます。まさにリサーチャーというより、マーケターの観察者は、哲学の眼が必要なのだと思う理由がここにあります。
自分とは平野啓一郎の言う分人であり、養老孟司の溶けていく自分(現在位置の矢印)を西田幾多郎が唱える「純粋」に体験し、分析的視点を持たずにその場に参加し観察すること。
身体を通じて、当事者である顧客や担当者、競合と"話す・聞く・見る"のがエスノグラフィーです(従来のリサーチでの"リサーチャーvs対象者"ではなく、私という観察者と顧客が、経験や場の関係・文脈を共有化することでアイデアを創出させる作業)。これは主観の客観化に繋がります。
つまり、自分が観察者であるという客観的側面と参加者であるという側面の両面を持つことが、センスメイキング理論の重要なる分かれ目になるのです。
まとめ
センスメイキング理論では、目的を創造する作業を大事にします。これは、この場でも何回も言及しているように目標値ではありません。目的は人間中心のものであり、人々にどのような価値を提供するかです。
センスメイキング理論の出発点である「環境の感知(Scanning)」によって、人は「自分たちは何者なのか?」を見つめ直します。
そしてまた人と企業は同一です。自社のアイデンティティ形成、存在意義を定めることが大切だと私は信じます。
企業の皆さまを悩ませているモチベーション低下に紐づいている「アイデンティティ・クライシス」。
この問題を拭い去るには「自分を知る、私とは何かを知る」覚悟ともいうのでしょうか。単なる数的な目標以外の自身への深堀とアプローチが必要であるのかもしれません。
言わずもがな、、私たちは常に鍛錬が必要なのです。
(完)