謝れないオジサンの謝れなさをめぐって

ラーメン評論家が燃えている。セクハラで出禁になったことに対する釈明ブログが原因である。例によって、謝れないオジサンの謝れなさが世に晒されたわけである。

別にこの件について細かく書くつもりはない。なぜこうも、謝れないオジサン達は謝れないのか、ということを書く。

今年もっとも謝れなかったオジサンは、やはり河村市長だろうか。金メダルを噛んだ自らの行為を「最大の愛情表現」としたアレである。あれほど我々の開いた口を塞がせなかった事案はなかなか思いつかない。

「自分にとってはこうだったので、悪いと思っていなかった」
これは炎上する謝罪の王道パターンである。謝罪の対象となった事実に加えて、「お前の狭窄な価値観など知ったことか」というツッコミが加算されるわけである。

今回のラーメン評論家の炎上もこのパターンである。「酔うとヒドい人間になるので、今回はマシな方」みたいな箇所が燃えているが、それ以外にも自分語りが目立つ。「僕、文字を書く仕事なんで、こういう適当なタッチの文章なら際限なく書けちゃう」の部分とか、なんかもう「そこにシビれる!あこがれるゥ!」くらいの言葉しか思いつかない。

もちろん、謝罪する事柄をめぐり、経緯を説明する必要はあるだろう。謝罪をするからには、「なぜそのような事態が起きてしまったか」を世間に申し開く必要がある。

経緯説明に失敗する人の多くが、この「世間」の性格を捉え損ねている。こいつを「自分を取り囲む人々の延長」と考えてしまうと、「内輪で許されているノリ」をそのまま適用してしまうことになるだろう。結果、その人が普段身を置いている「内輪」がいかに異常なものかが公の目に晒されるわけである。

世間というのは、人間の集団を意味する言葉ではない。人々の意識に内在化された「他者の目」の総体である。「私は許しても世間様が許さない」というところの、実体のない価値規範である。

実際に、誰かの謝罪会見を眺めるとき、私たちは自分自身の視点を通してそれを見ているのではなく、「世間がどう判断するか」という内在化された視点を通して見ているのではないか。そうであってみれば、何かを公に表明する行為は、「多くの人の目に晒す」ことを意味するのではなく、「一般意思的な何かのジャッジメントに委ねる」ことを意味することになるだろう。

それゆえに、謝罪の場において個人的な事情を開陳するのは得策ではない。ましてや、「いや、俺としてはこうなんだけど、何か?」式の開き直りなどもってのほかである。謝罪する者が相手取っているのは、「誰か」ではないのだから。

本題に戻ろう。してみれば、謝れないオジサン達は、なぜこの世間を見誤ってしまうのか。なぜ、一般意思的な何者かを前にしながら、おどけたようなへりくだるような、けれども尊大きわまる自己言及を繰り返してしまうのか。

許されないことを知っているからである。それぞれの謝れないオジサンが、「負け確」を自覚しているかは知らないが、ともあれオジサンの本能は鋭敏に「世間的敗北」を察知しているはずである。

世間様に認められないとき、どこに居場所を求めるか。自分を受け入れてくれる「内輪」に決まっている。決死の思いで「いつもの自分」を保つことで、内輪に媚びを売るわけである。「そこにシビれる!あこがれるゥ!」というフォロワーが出てくれば万々歳である。

謝れないオジサンはそれゆえに、「選択を誤ったがゆえにうまく謝れなかった」わけではないのである。謝らないことが、生存本能が示す最適解なのだ。

こうしてみると、謝れないオジサンはなんとも哀れな存在ではないか。彼らのことを見捨てられた子どもと考えてみよう。実際のところ、彼らの尊大な卑屈さに表れる精神年齢は、子どものそれとそう変わるところがないのだから。

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