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村田陽一 2019年オフィシャルインタビュー Vol.1 (interviewer: 内田正樹)

このテキストは、2019年『Janeiro』リイシュー盤リリースの際に行った、村田陽一のキャリアを紐解く10,000字オフィシャルインタビューである。前編となるこのVol.1では村田がトロンボーンを手に取った経緯から、現在の多岐に渡る活動までの足跡と、その音楽的なルーツについて聞いた。(内田正樹)


 ── そもそも村田さんは幼少の頃から特別な音楽の教育を受けていたのですか?

「いいえ。元々音楽好きでしたが、英才教育みたいなものはまったく。人数合わせ程度のきっかけで中学2年ぐらいから吹奏楽部に入ると楽しくなって、すぐにその気になって『プロになりたいな』と思ったのが中学3年の頃でしたね。子供って割と根拠のない自信があったりするじゃないですか。当時から行動力もあった方だったので、すぐに社会人の人たちのオーケストラに入れてもらって。高校の頃も背伸びをして大人と付き合っているほうが多かった。一応、吹奏楽部に入ってはいたけれども、僕はもう音楽を生業にしようと思っていたから、『こんなぬるま湯にいたらダメだ』と思っていたので、部内では孤立していました」

 ── ほう。

「その頃、ちょうど学外の静岡県でクラシックのコンテスト・高校生の部みたいなのが始まったので、そこでコンチェルトをやって。そうすると大人も注目してくれるし、『音大に進みなさい』と薦められるようにもなって。僕自身、N響(NHK交響楽団)の主席とか、クラシック好きの子供らしい目標を持っていました。でも、高3の時、たまたま地元に来たプロのジャズミュージシャンの演奏を聴いて、『あ、これはジャズのほうが絶対に面白いぞ』と感じたんです。何故ならメロディが吹けるから。オーケストラにおけるトロンボーンのスタンスって、決してソリスティックじゃないんですよ。僕、シャイなくせに目立ちたがり屋な部分があって」

 ── シャイなくせに目立ちたがり屋!(笑)。

「ええ(苦笑)。しかもヴォーカル物が好きだったから、自分でメロディを吹きたかったんですよ。それならジャズのほうが自由じゃないですか。ちょうど70年代後半から80年代って、クロスオーバーがポピュラリティのあるジャンルとして流行っていた頃で、そういうプレイヤーたちが普通にCMにも出演していたので、何かいいなぁと思って。だったら音大に入るより、早く東京に出て活動したほうがいいかなと思って。当時、知り合ったジャズの人たちからも、『音大なんか行くよりもどんどん仲間を増やしたほうがいいよ』と助言をもらい、それを単純だから信じちゃって(笑)。その頃に知り合ったのが、伊丹十三さんの映画音楽をずっとやられていた本多俊之さんや、現在の僕のような活動の元祖とも言える存在だった、トロンボーン奏者の向井滋春さんでした。彼らの助言を真に受けて東京に出て、徐々に仲間が増えて、今日に至っています。当時に知り合ったメンバーは、今でも一緒にやっていますね」

 ── 師匠的な存在はどなたもいらっしゃらなかったんですか?

「短期間に4、5回レッスンを受けた方はいましたけど、あとはいませんでしたね」

 ── では、近年のように、アンサンブル全体のスコアが書けるようになったのはいつ頃から?

「30歳ぐらいかな? とにかく自分はソリストとして活躍したかったんですが、『トロンボーンひとりで何ができるんだ?』ということになる。するとバンドを組もうかと考えるんですが、僕は自分自身がヴォーカリストのつもりだから、よくあるインストのバンドで、もうひとり横にサックスとかトランペットがいるような形はどうもグッとこなかったんです。もっとも、そんなスタンスで活動している人なんて、トロンボーンのプレイヤーでは乏しかったのですが」

 ── ちなみに、その当時の音楽シーンの流れというと?

「ちょうど時代的には才能のあるインストゥルメンタルのプレイヤーがポップスのほうに流出していった頃でしたね。YMO全盛期で、ざっくり言うと渡辺香津美さんを中心とするKYLYN BANDや、先ほどお話しした本多さんや向井さん、サックスの清水靖晃さん、村上ポンタさんや小原礼さん、教授(坂本龍一)がいて、矢野顕子さんがいてね」

 ── 強烈な面々ですね。

「他にも笹路正徳さんや山木秀夫さん、土方隆行さんとか。インスト界隈の尖った才能の方々が、どんどんポップスの世界に進出したり、プロデューサーとしても大成していく様子を見ていて、やっぱり自分が一番おいしい状態で吹くためには、自分でプレイヤーを選んで自分でスコアを書くのが一番手っ取り早いと気付いて。それがセルフプロデュースという着眼に繋がっていったんです。あと、基本的にジャズメンというのは自分の演奏のことだけを考えている人が多いんですが、僕は割と初めから楽曲全体のサウンドデザインに強い執着を持っていたんです。それで大学在学中にオルケスタ・デ・ラ・ルスに参加して、その流れで米米CLUBのツアーなど、ポップスシーンでの活動が始まりました。その後、のちの自分の音楽的な価値観を決定づけることとなるJAGATARAに参加していきました」

 ── JAGATARAは、村田さんの音楽的な価値観をどのように決定付けたのでしょうか?

「“バンドサウンド”の良さを学びました。それまでの自分は個々の“テクニック至上主義”だったのですが、JAGATARAはそれぞれが自己主張の強いメンバーでありながらも、メンバー各々がお互いの個性を受け入れて共存しているという稀なバンドでした。そうこうしているうちに、いろんな人から『譜面、書ける?』と言われる機会が増えていって」

 ── その頃は、すでにある程度の理論が頭に入っていたんですか?

「いえいえ、課題曲を耳で一生懸命コピーしていました(苦笑)。学生の間で、『村田はビッグバンドの譜面が書けるみたいだぜ?』なんて話題になっちゃったんだけど、ちゃんと勉強していたわけでも耳が特別に良かったわけでもなく、ただ聴こえる音を並べていただけなんでかなり危うかった(笑)。自分でも『ヤバい。これはインチキだよな』なんて思いながら書いていました。それでちゃんと勉強しようと思って、今ではステージをご一緒させていただいている渡辺貞夫さんの『JAZZ STUDY』という百科事典みたいな本を頑張って読んでね。あれは当時の僕ら界隈ではバイブルみたいな理論書だったんですが、まあとにかく読み辛いんですよ(笑)。多くの人が影響を受けたと同時に、多くの人を苦しめた本でした(笑)」

 ── うわあ(苦笑)。

「まあそんな感じで、自分がやりたいことイコール『ビッグバンドだな』と自分なりに分かっていくと、自分の楽器でもあるので『金管楽器からなら書けるかな』と追求し始めた。それが23、4ぐらいの頃でした。自分のバンドを組んで、新宿のピット・インでジャズ寄りのライブを続けながら、六本木のピット・インでフュージョン寄りの演奏をやらせてもらっていた。その頃には、ポップスのホーンアレンジの仕事依頼がずいぶん来るようになっていました」

 ── なるほど。

「ある時、『ちゃんとビッグバンド(のスコア)を書けるになりたい』と思い、六本木のピット・インで、自分でサックスを5人呼んで、ビッグバンドでやるようなソリを全ての曲で吹くというセッションを3ヵ月先に組んでみたんです。つまり、3ヵ月の間にサックスソリを書かなければと、自分で自分を追い込んだんですね。それがまあまあ上手く出来て、ようやく自分のスコアに『ちょっとは書けるようになったかな?』と、一度ハンコを押せたのが24、5ぐらいの時でしたね。でも、とてもじゃないけどまだまだストリングスまで書けるレベルではなかった」

 ── じゃあ現在のようにストリングスから何から全て込み込みで書けるようになったのは?

「いまから20年前、35、6くらいの頃からかな。正直、ようやく何とか形になってきたのは、ここ5年ぐらいですよ(笑)」

 ── 意外と最近じゃないですか! そんなことはないでしょう?

「いや本当に(笑)。ライティングについてはまだ全く満足していませんし、多分ずっとそんな感じだと思います。それでも何とか書けるようになったのは、チャンスをくださった方々のおかげですね。ブライアン・セッツァーと一緒にやられていた頃の布袋寅泰さんや、近年ではもちろん椎名林檎さんのお仕事ですね」

 ── 椎名さんとのお仕事から感じられることは?

「椎名さんの楽曲には様々なバリエーションがありますが、異端なことをやっても、結果的には彼女の色になるし、そこにポピュラリティが生まれる。楽曲提供の際は、彼女なりにクライアントからのテーマを尊重するし、しかも自身が歌う/歌わないに関わらず、きっちりと椎名林檎印のハンコを押したようなサウンドになる。強烈なバランス感覚ですね。彼女のアイデアは、僕の頭には全く無いものだし、僕も彼女から求められている部分を自分なりに察知していく。充実感のあるキャッチボールですね。勉強になるし、自分に欠けている箇所が補填されていくのも感じます。あの、椎名さんって、プレイヤーや共演者ごとに、相手との距離や作り方を変えていかれる流儀じゃないですか」

 ── そうですね。彼女自身もインタビューで「楽器コンシャス」と発言されています。

「僕が初めて椎名さんからアレンジのオファーをいただいたのはアルバム『逆輸入』(2014年)に収録された『望遠鏡の外の景色』でした。あの時は、何の打ち合わせもしなかったんです。いただいた16小節ぐらいの素材を聴いて、デモも作らず、ダビングではなく全員でせーので演奏を録るということだけを決めて。デモは、その後のお仕事から作り始めましたね。まあデモといっても、僕のはあまりちゃんとしてないんですけど」

 ── 通常、村田さんはどのようなデモを作られているんですか?

「フィナーレという楽譜作成ソフトを使って、MIDI音源をベターっと鳴らしている程度のものを音源化したものです」

 ── やっぱりまず譜面ありきなんですね。

「そうですね。手書きの譜面からスタートしているので。楽譜ソフトといっても、自分としては筆記用具みたいにデータを打ち込んでいる感覚なので、感覚的には直筆で楽譜を書いているのと同じですね」

 ── 近年のライティングを通して、あらためて強く影響を受けていたと気付かされたような存在はいらっしゃいましたか?

「弦で言えばドビュッシーとラベルですね。もちろんブラジル音楽も好きなので、アントニオ・カルロス・ジョビン、ジョアン・ジルベルトらのオーケストラアレンジをしているドイツ人のクラウス・オーガマンからも。でも何より自分の根底にあったのはギル・エヴァンス。彼がマイルス・デイヴィスと一緒にやった辺りとその前後にやった、ものすごく緻密な仕事が好きですね。“村田陽一オーケストラ”はまさにギル・エヴァンスのマナーでやっています。彼は禁則だらけというか、やっちゃいけないことばっかりやるんだけど、それを表現者として異常にカッコよく聴かせるスキルがあって」

 ── 確かにそうですね。

「多分、書き手というのは大きく分けると、誰がやっても同じようなサウンドを目標に書く人と、この人が演奏しなきゃ意味がないというギリギリのラインを攻めながら書くことに快感を覚える人の二通りが存在する。で、僕は完全に後者。そこは椎名さんとの仕事でも色濃く表れていると思います。トランペットが3人必要だったら、1番パートの人だけ決めて、あとはその人に2番と3番を連れて来てもらうようなブッキングではなく、2番も3番も全て僕が自分で決めている。椎名さんがプレイヤーに対する時もそうですが、やっぱり当て書きって、『ああ、これは俺のことを考えてくれたんだな』という気持ちが伝わるし、モチベーションも上がるので、演奏にも大きく影響するんですよ」

 ── 村田さんの過去のブログを読み直すと、他にもJ.J.ジョンソンの名前や、映画『グレン・ミラー物語』についての記述がありました。ギル・エヴァンスと同様に、J.J.ジョンソン、グレン・ミラーもまた村田陽一を形成しているルーツなのだろうと感じられましたが。

「まさにおっしゃる通りです。特にグレン・ミラーの存在は、そのポピュラーな認知度のせいか、意外と軽視されがちなんですよね。でも、彼の音楽を聴き込むと、彼のポピュラーな要素って、実はとてもマニアックな要素の上に成り立っていることがよく分かるんです。僕自身もマニアックな要素がポピュラリティを持つことに大きな意味を見出しているので、自分の物差しとしても重要な存在ですね。尚且つ、それを演奏者のエゴだと感じさせない表現こそが理想だと自分では思っています」

(Vol.2へ続く)


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