夜間飛行

 佐野を乗せた旅客機は東南アジアの小国にあるハブ空港を深夜に発ち、長い夜間飛行に入ったところだ。室内灯は減光し、乗客は眠りにつく。
 と、言いたいところだが、世界的なパンデミックで、乗客は佐野1名のようだった。規定でCAだけは、いつもの人数が乗っているから、乗客より乗務員の方が多い状態だ。長いこと東南アジアとビジネスで行き来している佐野にとって、今の状況は極めて特殊だが、いつの日か振り返って、そんな事もあったと懐かしく思うのかもしれない。

 佐野1名だけを運ぶにはあまりにも大きなその巨体は、座席のパーソナルモニターに現在地を映している。今いるのはマレー半島の東。目的地の成田まではまだ6時間ある。そろそろ眠りにつくか。佐野は目をつぶると、眠りに入ろうとした。すると、ゆっくりと、しかし大きく機体が旋回しているのを感じた。航路に大きなカーブはないと思うが、とぼやけた意識の中で佐野は思ったが、やがて日中の疲労のせいか、眠りに落ちていた。

 ふと目を覚ます。外はまだ暗い。左腕の時計を見る。出国地の時間で午前3時。日本とは1時間の時差だから、日本時間なら午前4時か。成田までまだだいぶある。と、真っ暗な外の景色で、わずかに光が見えた。そして、その灯りは、この機体が本来あるべき位置よりはるかに低い高度で飛んでいることを示していた。
「何が起きているんだ」
 佐野は長い経験から、非常着陸しようとしているのでは、と感じた。やがて航空機は、次第に高度を下げ、その、暗くて灯りの少ない陸地に着陸した。アナウンスもなく、予定時刻でもないのに着陸する時点で、異常な事態だ。あれだけいる乗務員は佐野が乗っていることを忘れているのか?

 滑走路へのショックは小さく、そのまま誘導路へ曲がると、そのまま空港のエプロンへ向かった。佐野はもし機体の不具合なら、ひとまず安全に陸に降りた事に安心した。それにしても乗務員からのアナウンスが一切ないのが解せない。
 と、前方通路から女性CAが歩いて来ると、日本語で佐野に語りかけてきた。
「お客様。当機は事情により、東京・成田には向かいません。こちらの島が目的地となります」
 佐野は訊いた。
「一体何があったんですか? 機体の不具合?」
 彼女は落ち着いて言った。
「機体に異常はありません。機長や副操縦士の体調にも問題ありません。事情はお話しできませんが、お客様にはいくつかの選択肢があります」
 なんだ、この対応は、後でクレームされても文句言えないぞ、そう思いながら、一応聞いた。
「まず、ここはどこなんですか?」
 彼女は静かに言った。
「この機は、消息を絶ち、やがて南シナ海に墜落したことで処理されます。今いる場所はお答えできません。お客様の選択肢、1つ目は、ここに来た事、当機での出来事のすべてを忘れていただきます。そのためある薬品を飲んでいただきます。その後、あるビーチで発見される予定です」
 佐野は驚いて声が出せなかった。
「2つ目。我々の作戦に参加いただくこと。今後1年以内に世界を揺るがす大きな事件がありますが、そこで役割を果たしていただきます」
 佐野は黙ったままだった。何を言えばいいのだろう。
「3つ目。いずれもお約束いただけないなら、お客様に非はありませんが、この場で亡くなっていただきます」
 一体なんてことだ。佐野はやっとの事で口にした。
「なぜ… 死ななくてはいけないのですか? 日本に安全に運ぶのがあなた方の仕事でしょう?」
 CAは、冷静に言った。
「当機は、もともと乗客がゼロの日をターゲットに計画されました。直前にお客様が予約され、弊社の営業はこの件に関与してないため、仕方なくお乗せしたに過ぎません。お客様は運が悪かったとお考え下さい。この計画は、今後の世界史を大きく変える作戦の序章です」
 もう、悪夢のようだった。そういえば、何年か前に、東南アジアで消息を絶った旅客機について、本当は墜落してないのでは?という都市伝説のような噂が立ったことを薄っすら思い出していた。これ、例え他の選択肢が不満でも3番目を選んではいけない。1か2を選んで、後の事はまた考えよう。2は結局、作戦を知ってしまうから、命の保証はないのでは? 少なくともその後の自由は無さそうだ。佐野は意を決して答えた。
「1番でお願いします」
 CAは頷くと、席をお立ちください、と言い、丁度タラップ車の横付けされたドアに案内し、機外へ降りるよう誘導した。

 その後、空港の名前も知らないまま、小部屋に通された。おそらくここは、軍用施設だろう。通常の民間空港で見かける華やかなペイントの旅客機や、ボーディングブリッジなどの施設が見当たらなかったのだ。狭く殺風景なその場所で、夜間なのにサングラスの男から、目の前に簡素なコップと薬品を出されて、佐野は静かにそれを飲んだ。麻酔のように意識が緩やかにぼやけて、そしていつの間にか気を失っていた。

 どれくらいそうしていたのだろう。熱い熱帯の日差しで目が覚めた。目を開けると、朝日とは言えないほど高い位置の太陽。そして海の音。潮の香りがした。佐野は、パスポートと財布だけをポケットに入れて、その場所に倒れていたのだ。ふと見ると、腕時計も左腕に残っていた。
 地元の子供たちが佐野を見つけて知らせてくれたらしく、向こうから大きな声を出して大人を連れて走ってきた。
 通じない言葉で何か言われて、英語で返す。幸い、大人が日本人であることを理解して、そのまま町の警察まで案内してくれた。

 パスポートのおかげで、日本領事館に案内され、その後日本に帰ることができた。しばらく頭痛が治まらなかったが、それでも次第に痛みが引いてきた。おりからの世界的パンデミックで、隔離のため成田周辺のホテルに滞在することになったが、やがては日常に戻れるだろう。ホテルのテレビで、自分が乗ったはずの旅客機が南シナ海で消息を絶ち、海底で尾翼の一部が発見され、墜落したとみなされたが、乗客の佐野だけが南シナ海沿いの国の海岸で発見された、と報じられていた。佐野は、大事にしていた腕時計を見ると、いずれ自宅に帰ってからのことを考えていた。

 その4カ月後。欧州で開催された世界的なスポーツイベントの開会式に大型旅客機が墜落する事故が起きた。直前に人権問題からその大会の参加を拒否された国に所属する旅客機だったため、
世界各国は、テロ行為ではないかとその国を激しく非難した。第三次世界大戦、という言葉がネット上で交わされるようになった。様々な憶測と、不穏な言動が世界で巻き起こった。

 その頃、職場に復帰して多忙な生活を送る佐野は、この大きなニュースを前に、考えを巡らせていた。
 あの後、成田のホテルから戻り、日常に復帰していた佐野は、自宅に戻ってすぐ、腕時計からデータを吸い上げていた。一見頑丈なアナログ時計に見える彼のそれは、会議用の録音機能が備わっており、あの日、CAとの会話を録音していた。
「あの、謎の空港で、俺の乗った旅客機はペイントを変えて今回の事件に使われたんだろうな」
 でも、それを漏らしたら、自分の命は無いだろう。さて、この世界史に残る秘密を、どうしたものか。

*この物語はフィクションです。