見出し画像

数学の神様がくれた砂時計

人生は砂時計のような物、生きれば生きるほど死に近づく。そして人生の岐路にも、小さな砂時計達が用意されている。

小学校の頃から算数は得意だった。ただそれを仕事にしようと思ったのは20歳位の時で、それから僕は数学に人生を捧げ、去年その数学会から去った。33歳だった、挫折。色んな経験をした。大学院の時、苦い経験がある。

僕らの業界は論文を書いたらジャーナルに投稿する前にアーカイブと呼ばれるオープンソースに投稿する。投稿すると他の専門家がそれを見てコメントをくれたり、当然自分が最初にやったんだと主張する為にあったりもする。僕は2014年、そこにある論文を投稿した。

それからしばらくして、ある研究者から一通のメールが届いた、論文に間違いがあるという趣旨だった。その指摘は正しかった。僕はその時就職活動中で、その論文の結果を(恐らく面接代わりに招待されている)大学の講演で話そうと思っていた矢先に起きた事だった。当然誰にだって間違いはある、ただタイミングが悪かった。当時僕は大学院生でオフィスはシェアだった。学科の建物の中にあまり多くの人が使わない印刷室があって、僕はそこに一ヶ月こもった。招待講演は一ヶ月半後。一ヶ月がその時の僕に与えられたタイムリミットだった。

静かな部屋で一人、その論文を書いていた一年前の自分自身と対峙した。どうやってこのアプローチに至ったんだろ、なぜこの定義が必要だったんだろう。あの時の自分が見え隠れする、でも掴めない。寝る時の意識がなくなる瞬間も、起きてからの意識が戻る瞬間も、僕はその問題と対峙して過去の自分を追いかけた。

一ヶ月は短すぎた。僕は講演内容を変え、その論文から主定理をとってもう一度オープンソースに投稿した。そしてそれ以来その問題から身を引いた。考えるだけで血の脈が引いていく感覚がした。大好きな数学で、そんな拒絶反応が出たのは初めてだった。

それから半年が経ち大学院を卒業し、僕はハワイ大学に赴任した。正直、数学者としての限界は大学院にいた頃から感じてはいた。単にアカデミアに残る事は、自分が追い求める数学者像ではない。僕は世界のフロントラインで活躍できるような数学者になりたい。しかし、数学という誤魔化しの一切きかない世界で、才能という壁は絶対的に僕の前にそびえ立っていた。はたから見たら、僕はある程度成功してた方かもしれない、でも自分自身が一番わかっていた、

僕は、自分の目指すような数学者にはなれない。

数学会を去り、数学の次に好きだった人工知能の世界で生きていく事を考え始めたのは、ハワイに赴任した2年目だった。

とはいえ、10年以上情熱を捧げた数学での夢を完璧に諦めることはできなかった。赴任して3年目、僕は一つの勝負をした。それは、2014年に僕が敗北したあの問題にもう一度挑戦する事。あれから3年が経っていた。思い返せば、常にあの問題は僕の頭の片隅にあった。目を背ける事を意識的にしていたが故に、裏を返せば、ある一定の意識は常にそこ注がれていた。別に他の数学者からしたら大した問題じゃないかもしれない、でもあの時の僕は、あの問題に再挑戦する必要があった。自分自身と対峙せずして、僕に数学者としての未来は無かった。もし僕が数学者として3年分成長していれば解けるかもしれない、成長が少しでも可視化されれば、もう少しだけ自分を信じれるかもしれない。

僕は問題にとりかかった。幸運にも問題への拒絶反応は消えていた。とりかかってから約半年後、その問題は解けた。解いた、ではなく、解けた。

優れた数学者は別かもしれないが、僕には、問題が解けるまでの地図なんて見えた事が無い。ただある岐路で左に曲がるか右に曲がるか、そしてゴールに近くなってきているか位はなんとなくわかった。僕がこの問題を、解いた、ではなく、解けた、と言う理由は全ての道のりをスキップして、いきなりゴールの前まで行ってしまった事にある。数学に神様がいると思わざるを得なかった。10年以上数学をしてきてこんな経験はなかった。僕はその時、数学者として限界に来たと実感した。32歳というまだアカデミアでは若手とされるその歳で、訳もわからず何故か解けてしまった自分自身を、もう信じることはできなかった。2017年、夏の日差しの強い7月だった。

そのだいぶ前から大学でデータサイエンスのチームの一員としてあるデータセットの解析をしてくれないかという依頼が来ていた。ずっと断り続けていたが、問題が解けたその一週間後、その年の10月からそのプロジェクトに参加する事を伝えた。数学者としての生命線を問うた勝負で、勝ってしまった事によって見えた数学の神様に与えられた、引導だった。

数学には、数学の為に数学をする純粋数学と、他分野への応用の為に数学をする応用数学の2種類がある。僕は前者だった。この論文が純粋数学者としての最後の論文になるかもしれない、僕は7月の中旬から論文執筆を始め、その2ヶ月後論文は完成した。全てを込めた、その問題に出逢ってからの3年間の自己の紆余曲折だけでなく、18歳の時に渡米し夢を得るまでの2年間の青春と、数学者を志し数学と共に生きたデケードの全てを、僕はその論文に込めた。その論文は去年僕が数学会を去った後、International Mathematics Research Notices誌に採択された。

人生はそれ自身が砂時計のような物だ。生きれば生きるほど、死に近づく。そして、人生の岐路にも別の小さな砂時計が用意されている。2017年の夏の2ヶ月間、僕はその砂時計と共に過ごした。砂時計の下にいる論文の完成が近づけば近づくほど、砂時計の上にいる純粋数学者として残された時間は無くなっていった。その砂時計の上の砂が無くなった時、つまり論文が完成した時、僕の純粋数学者としての人生は終わった。嬉しさはなく、悲しさしかなかった。砂が上から下に落ちていく時、砂時計の真ん中の一番細い所で、僕は数学にかけた十余年の情熱を思い返した。僕は数学を愛していた。

人生の砂時計の最期は死。だからそれをひっくり返す事はできない。

しかし、人生の岐路にある砂時計はひっくり返す事ができる。

僕は今、その砂時計をひっくり返して生きている。純粋数学者として数学で残した、ちっぽけかもしれない業績が、今人工知能の世界で数学者として生きる自分に自信をくれている。だから僕は自信を持って言える、

砂時計の砂は、移り変わり行くだけで無くなりはしない。失うものなんて何もない。だから、自分の人生の一節全てを数学に捧げた事に、一切の悔いはない。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?