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記事はフルコース料理のように

尊敬するジャーナリストの方に取材したとき、その人は記事をフルコース料理にたとえて、こう言っていた。

(記事は)「最初の一口目」と「最後のデザートの後味」こそ、最も重要。最初の一口目で「もっと食べたい」と思わせ、最後のデザートを食べ終わって「ああ、本当においしかったな」と思ってもらう。どれだけ途中がよかったとしても、最初と最後がダメだと台無しになってしまう。

だからこそ、「最初と最後の一文に、すべてを賭けよ」と言っていた。

書き手としても読み手としても、職業柄、日々たくさんの記事に触れるなかで、フルコース料理のたとえはとても腑に落ちるものだった。

とくにネットの記事の場合、冒頭での離脱率が高いことを考えると、書き出し次第で読み手のモチベーションが変わることがある。それに最初の一文は、書き手のセンスが滲み出るところでもあるのかもしれない。

これはあくまで自分のなかでという話だけど、全体の構成を考える上で一つの解としているのが、「記事の中で最もインパクトある箇所を冒頭に持ってくる」ということ。

わかりやすい例を挙げれば、『週刊文春』がスクープを連発して一気に世間的な注目が高まりつつあった2年前、新谷学編集長に取材して書いた記事では、最もインパクトがあり、かつ読者が知りたいであろう、「(当時炎上中だった)ベッキーさんについて」を一番最初に持ってきた。

その記事は雑誌に掲載した1万字記事の一部を抜粋してネットメディアに転載したもので、ネットで話題になるように雑誌記事とは構成を組み替えた。だから雑誌の記事では「ベッキーさんについて」は、たしか中盤くらいだったかと思う。

ちなみに、新谷編集長への取材記事は当時はまだあまりなくて、AERAに次いで2番目くらいに取材をさせていただいたこともあり、記事は多くの人に読まれた。

それもあってその記事は奏功したけど、もちろんケースバイケースであることのほうが多い。むしろたくさん読まれている記事でも、必ずしも冒頭が秀逸かと言えば、決してそんなことはない。

だからここで書いている話は、読み手からすればあくまで書き手目線の瑣末なことなのだとも思うし、ただ自分は書き手として、その瑣末なことにこそ、こだわり続けたいと思う。

余談だけど、書籍もフルコースにたとえられるのかもしれない。冒頭のジャーナリストの方の「最初と最後の一文に、すべてを賭けよ」の言葉を変換すれば、「まえがきとあとがきに、すべてを賭けよ」ということになる。

自分は作り手として書籍の経験は浅いから、実際のところはわからない。ただ一読み手として書籍を買うかどうか迷うとき、だいたいは「まえがき」と「目次」を読み、さらに「あとがき」も読んで決めることが多い。

その「まえがき」がとてもうまいなと思ったのは、『国家の品格』で有名な藤原正彦さん。『日本人の誇り』というあまり読む気にならないタイトルの書籍も、読んだのはもう5年以上前なのに「まえがき」だけは圧倒的に面白かったのを覚えている。

とはいえ、記事にしろ書籍にしろ、最も大事なのは最初や最後以上にその中身であることは言うまでもない。フルコース料理と同じように。

ここまで偉そうに書いてみたけど、この記事自体には最後のデザート的なものが思いつかず、「ああ、本当においしかったな」という読後感をつくれない…(すみません)

なので、というか、この記事を書いてみたのは、冒頭の尊敬するジャーナリストの方が書いた『争うは本意ならねど』を久しぶりに読み返して思い出したからであり、おすすめです。


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