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『深夜特急』という病

いま『深夜特急』を初めて読んだとしたら、10年前、初めて読んだときのように熱狂できる自分はいるのか、とふと思う。

時間があり余って悶々としていた大学3年生の当時と、仕事や副業、育児に忙殺されつつもどこか悶々としている現在。

置かれている状況も違えば、10年という歳月を経たことで、何かに影響を受ける感度のようなものが失われてしまっている気がする。

『深夜特急』は、一人の若者が、デリーからロンドンまで乗り合いバスを乗り継いで行くという、「およそ何の意味もなく、誰にでも可能で、それでいて誰もしそうにないこと」が描かれている紀行文だ。

あまり読む気にさせてくれない「紀行文」という響きに、旅先で遭遇する出来事への生き生きとしたリアクションを圧倒的な言葉で彩り応える。

大学3年生の時、アルバイト先の先輩から強く薦められ、この本に出合った。

「なんか地味そうな本だなぁ」と思いつつ、とりあえず1巻だけでもと渋々読み進めるうち、貪りながら読破した。

読むうちに「こんな旅してみたいかも」と抱いた漠然とした思いは、全6巻を読み切った時には決意どころではない確信に変わっていた。

すっかり感化されてしまった僕は、自分なりの『深夜特急』をしようと、すぐにアフリカ大陸を縦断する一人旅に出た。

人生で最も影響を受けた本だけど、好みがはっきりと分かれる本でもある。周りに勧めても、むしろハマらない人のほうが多かった。

スリリングでもなければ、想像を越えるほどのインパクトがあるわけでもない。ストーリー云々もない。でもだからこそ、底知れないリアリティがある。

なんとなく知ってそうで知らない異国の地を旅する沢木耕太郎という若者に否応なく自分が投影され、そこで起こる出来事や細かい心情がいちいち見事に言語化されている。

Amazonには「これを読んで旅に出た」というレビューがあふれている。その一人として、この本が多くの人を「旅人」に変えてしまう危うさを身を持って実感している。

とくに好きなのは、バンコクの日本人駐在員夫妻の談として、こんなことが書かれていた箇所だ。

しかし、外国というのはわからないですね。ほんとうにわかっているのは、わからないということだけかもしれないな。知らなければ知らないでいいんだよね。自分が知らないことを知っているから、必要なら一から調べようとするに違いない。でも、中途半端に知っていると、それにとらわれてとんでもない結論を出してしまいかねないんだ。どんなに長くその国にいても、自分にはよくわからないと思っている人の方が、結局は誤らない。

この言葉を聞いた沢木耕太郎は、「旅で学ぶことのできた最も大事な考え方のひとつ」と書いている。

何かにいくら精通していたとしても、世の中、断言できることのほうが少ない。それは外国に対してだけでなく、あらゆるものに対しても当てはまる。

僕にとっても、『深夜特急』と旅を通じて学んだ最も大事な考え方のひとつだ。

いま『深夜特急』は本棚に置かれたまま、埃をかぶっている。10年前に読みすぎてボロボロになったきり、「もう読むまい」としようとしている自分がいる。

「旅に出たい」という欲望に感化され、また『深夜特急』という病に冒されてしまうからという怖れではない。

「この本があったから、いまの自分がある」と言えるたぶん唯一の本だからこそ、まだ触発される自分であってほしい。

そう思いながら、もう何年も手に取れずにいる。

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