あの日、『シンジ』だった僕たちは、今日『ゲンドウ』 になってやいないか?
#シン・エヴァンゲリオン劇場版 #アニメ #ネタバレ #エヴァ
『シン・エヴァンゲリオン 劇場版:||』を見てきた。
すごく、よかった!
「こんなに幸福な1,800円の使い方ができて、とても満足だ」と感じるくらいに。
25年間のいろいろなことがやっと腑に落ちる感じ。
それと同時に「あ〜、これでもうエヴァンゲリオンは本当に終わったんだな…」と心底感じた。
迷っている人は絶対に見た方がいい。
特に、あのとき14歳(くらい)でリアルタイムで見ていた人たちは見るべきだ。
見て、終わらせるべきだ。
なぜそう思うのか?
世迷いごとかも知れないが僕の妄想に付き合っていただけると嬉しい。
ーーー以下、ネタバレアリーーー
さて、「シン・エヴァンゲリオン 劇場版:||」を見終わった今、エヴァンゲリオンシリーズが「シンジの成長の物語」であることがはっきりした。
シリーズを通して、シンジの成長がはっきり描かれた今作が、最後の作品になるのは必然である。
なぜならシンジが大人になったから。
シンジが大人になったからエヴァンゲリオンは終わったし、終わらせるためにはシンジが大人にならなければいけなかった。
※もちろん解釈の違いは人それぞれ大いにあるだろうが、ここではそういうことにしておいてもらえると助かる。
ではエヴァンゲリオンという物語が完結した今、この物語の意味すること、もしくはメッセージは何だったのだろうかと考える。
ーーーここから妄想パートーーー
「ゲンドウ」と「第3村」は、あの日シンジに心を通わせた僕たちの人生の可能性だった
今作で初めて、「碇ゲンドウが過去を語る」というシーンがある。
そこで自身の過去を語るゲンドウは、社会との接点を無くして自分の世界に閉じこもるオタクのメタファーだった。
※ステレオタイプな解釈であることは承知。すみません
少し昔話になる。
初めてアニメ版エヴァンゲリオンを見た時、僕は14歳だった。
いわゆる「選ばれた子供たち」と同年代だった。
当時はインターネットもそんなに普及してないし、アニメは子供の見るものという風潮も強かった。
何より、いい歳してアニメにハマってる大人は「オタク」と呼ばれた。
今では完全に市民権を得ているオタクだが、当時は非常にイメージが良くなかった。
そんな当時のエヴァンゲリオンの登場は、本当に衝撃的だった。
2020年の「鬼滅の刃」の現象とは全く違い、学校でもエヴァの話題はおおっ広げにできる雰囲気ではなく、仲のいい陰キャ同志でコソコソやっている、そんなアニメだったのだ。
エロくて、グロくて、カッコいい!そしてなんか意味深…
名実ともに中二全開の僕たちは、同年代のシンジに自分たちの心情を重ねつつ、エヴァが描く世界に、深く暗くハマり込んでいったのだった。
だから今作のゲンドウは、当時の超ネガティブなオタクのイメージに重なって見えた。
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対して「第3村」のシーンもかつてのエヴァンゲリオン作品にはなかったタイプのシーンである。
こちらのシーンが意味するのは健全な成長である。
※こちらもステレオタイプな物言いですまない
今までのエヴァンゲリオンにはほぼ登場しなかった
・乳飲児
・妊婦
・おばちゃんたち
が登場し、およそエヴァンゲリオンの世界観に似つかわしくない「田園風景」も現れる。
これらは成長、繁栄、社会参加、持続、生活、と様々なメタファーになっていると思われる。
そこに全キャラ中で一番「生活感」からかけ離れているレイが、次々と生活に適応していく様子は非常に象徴的。
また、エヴァンゲリオンの世界で唯一(?)オタクと言われていたケンスケが、その能力を生かして立派に第3村に貢献し、今作においてそこそこ重要な登場人物になっているのもなんらかの意図を感じる。
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エヴァンゲリオンが始まってから25年が経ち、当時14歳だった僕たちは『シンジ』より『ゲンドウ』のライフステージに近い。
アラフォーになり、妻子がいる人も少なくないだろう。
あの日、14歳だったシンジ(と僕たち)は『ゲンドウルート』にも『第3村ルート』にもなり得る分岐点にいたのかも知れない。
もちろんゲンドウのように人類を敵に回してまでも、自分の欲望を叶えるたいなどと思う大人に育った人はこの世にいないだろう。
だが『ゲンドウ』の本質は「自分の欲望に向かうあまりに、大切なものに気づけない大人」だ。
大人だけど大人じゃない『ゲンドウ』
対してシンジは子供だけど大人になった。大人になって「現実(ケジメ)」と向き合った。
※最後の実写の街に走り出すシーンは、「実写=現実」に見立てたメタファーだと思う。
『ゲンドウ』は目の前の大切なものから目を背け、ありもしない理想を追い続け、結果、最後に自分の追い求めていたものは、自分が逃げ続けたものの中にあったと気づいた。
その意味で本当に自分が『ゲンドウ』化していないと言える大人はどれほどいるだろう?
本当に大切なものに向き合える大人になれているのだろうか…
みんな『第3村』を目指せ!とは決して言えない。
だがそこには大いにヒントはあるはずだ。
最後に
「自分のライフステージ」と「エヴァンゲリオン」を重ね合わせて考察する楽しみ方は、アニメの登場人物との共感、過去の社会背景、自分の黒歴史、現在の社会の価値観など、いろいろなものが重なり合って初めて楽しめるものだった。
妻は僕と同い年ながら「中田敦彦のYouTube大学」からエヴァンゲリオンを知り、最近NetflixとAmazonプライムで見始めたという筋金入りのニワカである。
でも十分楽しんでいて、『シン・エヴァンゲリオン 劇場版:||』も一緒に観に行った。
僕の恥ずかしい考察も前のめりで聞いてくれた。
25年前ではアニメについていい大人がオープンに語るなんて考えられない。
本当にいい時代になったと思う。
こんな素晴らしい作品をありがとう。
さよなら全てのエヴァンゲリオン。
2021/3/12追記
僕なりにエヴァンゲリオンを楽しんできた経緯をこのnoteを書き終わり、改めて他の人の考察を読ませて頂くと自分も十分ニワカファンの域を脱していなかった。笑
(妻、すまん)
ガチ勢の方々の庵野秀明監督の人間像を背景に読み解くエヴァンゲリオン考察は凄い。
凄いが、そもそも「物語」を作者の作成動機にまで求め始めると全てのコンテンツは意味を失う。
一定のラインで「バカ」になることが肝要だと思う。
そのレイヤーが人によって違うだけ。
そう自分に言い聞かせつつ、やっぱりみんな語りたがっている「エヴァンゲリオン」は名作だった。
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