5966. 社会との協創によって実現される発達と「発達」という暴力:ヴィゴツキー、ピアジェ、ハーバマスの観点より

時刻は午後4時に近づこうとしている。今、空は晴れていて、太陽の姿を拝むことができている。

先ほど、改めてカート·フィッシャー教授の追悼論文集“Handbook of Integrative Developmental Science (2020)”を読んでいると、色々と考えさせられることがあった。それらについて備忘録がてらまとめておこうと思う。

まず1つには、ヴィゴツキーとピアジェの発達思想と関連づける形で、発達現象に伴う規範的側面について触れておきたい。教育哲学者のザカリー·スタインが指摘しているように、「発達」という言葉には、科学的な記述的側面と、価値的な規範的側面に関する二重の意味が絶えず内包されている。

とりわけ後者について、どうして発達という言葉に絶えず規範的側面が付き纏っているのかについて考えていた。この点についてはすでに数日前の日記にも書き留めたが、新たな観点を与えてくれたのが、ヴィゴツキーとピアジェの発達思想だった。

ヴィゴツキーが強調するように、発達とは様々な種類における社会的な協働作業によって実現していくものであり、この点については、ピアジェも「相互承認」を通じた発達という考え方を採用している。またそもそも、社会というものが規範的な行動や規範的規則によって構成されており、私たちは社会のそうした側面に絶えず触れながら、そして絶えず影響を受けながら生きることを通して発達を遂げていくのだから、発達には絶えず規範的な側面が伴うというのは当然と言えば当然だろう。

であればここで、健全な発達の形というものも見えてくるのではないかと思う。以前、成人発達理論とインテグラル理論に造詣の深い知人とやり取りをさせていただく中で、「高度な発達を遂げた人というのは、単に複雑な思考ができるだけではなく、この社会の文化や制度に内包された構造的な問題に自ずと関心を持つはずなのではないか?」というような投げかけをしていただいたのを覚えている。この指摘は正鵠を射たものだと改めて思う。

ヴィゴツキーやピアジェが指摘するように、人間の発達というものが、本来社会との協創によって成し遂げられるものを考えると、健全な発達を遂げていくというのは、絶えず社会課題を内在化(internalization)させていくという側面があるはずである。もちろんながら、発達には多様な領域があり、全ての発達領域における発達が社会課題を内在化させる形で進んでいくわけではないが——実際には、社会的な生き物である人間が携わる全ての学習・実践領域は必ずどこかで社会と接しているものだと思うが——、今私たちが直面している社会の課題を乗り越えていくために必要な発達というのは、多分に上述の要素を持ったものなのだと思う。

また、高次元な発達について議論していく際には、ハーバマスが指摘するように、高次元の発達段階がいかような思考内容·行動内容を持つのかについて、絶えずリアリティチェックをする必要があるだろう。生粋の発達科学者の多くがケン·ウィルバーの発達モデルをほとんど参考にしていないのは、ウィルバーはもちろん非常に優れた発達モデルを提唱しているのだが、とりわけウィルバーが提唱する高次元の発達段階というものが、サンプル数の少なさゆえに、それらの段階にある人々が現代社会の具体的な状況及び課題に対してどのように思考し、どのように行動するのかが明確ではないことが挙げられる。

人間発達に関する知識を積み上げていく際には、リアリティチェックを怠ることなく、そしてそれを発達に関する議論や実践に規範的な形でフィードバックをしていく必要があるのではないかと思う。こうしたリアリティチェックとフィードバックを怠り、発達の科学的な記述的側面だけを取り出して発達について議論や実践をしていくことはおかしな方向に私たちを導いてしまうだろう。

またそもそも「発達」という言葉が、先進国のエリートたちが生み出した構成概念(construct)に過ぎない点も忘れてはならない。言い換えれば、この地球上には発達などという言葉を気にせずとも、あるいは社会経済的・文化的に発達という言葉と無縁な形で存在している人々や地域が存在しており——そうした人々や組織は先進国にも当然ながら存在している——、そうした人々や地域に対して発達という言葉を押し付けるのは、別種の暴力ではないかと思う。

発達という言葉が地球の隅々で志向対象(orientation)になれば、発達をめぐって協創ではなく競争が後を絶たず、発達という言葉が嗜好対象(preference)になれば、発達という現象は単なる消費対象に成り果ててしまうだろう。その結果として、人間は高度な発達に向かうことを絶えず煽られる形で生きる消費的な生き物に成り下がってしまい、この社会はそうした消費的生き物の集合になってしまうのではないかと思う。

この世界が維持存続していくためには、多様性が不可欠であり、そうした多様性を確保するためには、発達を希求するゲームとはそもそも無縁な人々や集団、あるいはそうしたゲームから降りる意思表示をした人々や集団に対して、発達及び「発達」という言葉を強要する暴力は避けなければならないことである。フローニンゲン:2020/7/6(月)16:39

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