5957.「忘れたことと忘れさせられたこと 」:社会実践性を希求する実践霊性学・実践美学・成人発達理論・インテグラル理論

今、時刻は正午に向かっている。今朝は小雨が降ったり止んだりを繰り返していて、今は小雨が病んでいる。今朝はとりわけ気温が低く、今も引き続き暖かい格好をして、温かいコーヒーを飲んでいる。

午前中にふと、評論家の江藤淳の書籍の中に、「忘れたことと忘れさせられたこと 」というものがあることを知った。この書籍のタイトルから、色々と考えさせられることがあった。

1つとして、今の私の関心事項である霊性や美に関して、現代人はそれらを忘れてしまったという側面があるのと同時に、現代社会の風潮や仕組みによって「忘れさせられてしまった」という側面もあるのではないだろうか、という考えが浮かんだ。

そもそも、霊性や美というものが存在していることに気づき、それらに対する理解を育みながら、自分自身の霊性や美というものを涵養していくことは大事なのだが、それらがそれまでなぜ見えなかったのかという問題意識を持つことと同時に、ひょっとしたらそれらが見えなくさせられてしまっていた可能性はないかを考えてみることが重要のように思える。

とりわけ現代社会に蔓延する風潮や仕組みは、霊性や美というものを抑圧・隠蔽する傾向にあり、むしろそれらを抑圧・隠蔽することによって自身の風潮や仕組みを肥大化させているようにすら思える。現代の風潮や仕組みによって抑圧・隠蔽されてしまっているものの中にある価値を再度見直すことに加えて、そうした抑圧・隠蔽を働く現代の病理を見つめていく慧眼のようなものを持つことが私たちに要求されているのではないだろうか。

成人発達理論にせよ、インテグラル理論せよ、それは私たちの認識世界を開くという認識論的な価値があるのと同時に、これまで見過ごしていたものたちの存在を認め、それらに存在場所を与えるという存在論的な価値もある。

それらの理論を学ぶことを通じて、社会の盲点になっている事柄を見抜き、それが内包する価値を検証していくような姿勢を育んでいくことは大切だろう。そして、それまで存在が忘れ去られてしまっていた存在を見つめることを通して、そうした存在を抑圧・隠蔽し、疎外させるこの現代社会の風潮や仕組みを吟味していくことが、社会をより良き方向に発達させていくことに不可欠なように思える。

そのように考えてみると、成人発達理論やインテグラル理論というのは、極めて社会実践的な理論であり、もしそうした役割を骨抜きにする形でそれらを学習するのであれば、それらの理論の真価を捉え損ねているように思える。

それらの理論を通じて単に自閉的に自己理解だけを深めることは、ある意味自我の肥大化を促すことであり、ピアジェが述べたように、発達の本質とは自我中心性の縮小なのであるから、それらの理論が本来目指すべきものから逸脱していることを示唆している。

今、私が探究を進めている実践霊性学や実践美学というものも、そこにあえて私が「実践」という言葉を付したのも——後者は美学者の今道友信先生の言葉だが——、霊性学や美学というものを社会の課題に紐付け、現代において忘れてしまっている、あるいは忘れさせられてしまっている人間本質の霊性や美というものを、社会実践的な形で再発見し、それらを育む道を提示していきたいという自分の問題意識があるからなのだろう。

これまでの自分が専門にしてきた成人発達理論やインテグラル理論というものに対しても、そうした問題意識に根ざした形で探究と実践をこれからも続けていきたい。フローニンゲン:2020/7/4(土)11:54

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?