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分かってほしいだけなんだけど、

年齢を重ねるごとに人に説明する機会が増えるから否応なく自分の知っていることを伝える術について考えざるを得ない。
ある時は、ひと言、ふた言、口にしただけで分かってもらえるし、懸命に話しても通じないこともある。
できるかぎり少ない言葉ではやく説明できたほうがお互い楽なので、そうしたい。
何もこちらが説明する時だけでなく、教えてもらう際にも効率よく理解したいと思う。
説明したり説明されたりを繰り返す中で、ある人の説明はいつもよく分かるのに、別のある人とは分かり合えないことに気がつく。
最近、人によって「理解」する方法や、「分かった」と感じる状態が異なるのではないかと思うようになった。
本当は神経科学や哲学のテーマだけど、今日は印象論に終始する。
理解の方法や状態、分かった事柄に対して抱くイメージが違っていれば、伝え合うのは相当に難しい。

料理の作り方や機械の動かし方といった具体的な説明でも人によって合う、合わないがある。
スポーツなど、身体の動かし方はもう少し抽象的で、人によって持っているイメージがかなり違う。
ロジックを必要とするものはもっと難しい。
評論を読むとか、パズルを解くとか、あるいは、あらゆる学問。
抽象度が高ければ高いほど、合わない人に説明されてもお手上げ、ほとんど無理と言ってもいい。

理解の方法について議論するのはかなり難しいが、理解度はもっと具体的な量で外部からうかがい知ることができる。
理解しているかどうかを確かめるには、説明を受けた後、実際にやってみるなり、練習問題を解いてみたりすればいい。
説明を受けた人の頭の中で何が起こってるかは問わない。
機械学習と同じで内部がブラックボックスでもいい。
ただインプットに応じて適切なアウトプットができればいい。
スポーツならプレーすればすぐ分かるし、数学なら正解を導き出せるか、もう少し詳しく調べるなら途中の計算を見てもいい。

しかし、理解度を測っても理解する行為の本質は何もわからない。
理解の捗る説明にはふたつのパラメーターがある。
ひとつは知識量、もうひとつは思考形態の近さ。
自分の持っている知識量が多ければ説明不足を自分で補えるし、相手と共有する知識が近ければ理解しやすい。
実際、説明の分かりにくさのほとんどは、説明をする側と受け手のどちらかの知識不足によると思う。

しかしそれでも、お互いに詳しい分野の説明をされて、まったく分からないときがある。
そんな時に、きっとこの人と自分とでは、同じ事柄について全く異なる景色を頭の中に持っているのだろうと感じる。
例えば、分野の近い研究者同士だと、同じ手法で実験を行い、結果を解釈してデータにする。
それなのに、解釈の方法が違ったり、同じ解釈でも説明の方法や順番が逆だったりする。
経験を重ねるとそれすらも考慮に入れて説明しようとするのだけれど、そうすると話が長くなる。
同じ思考形態の人に説明するのは簡単だ。
いくつかキーワードを言えば理解して貰えることすらある。
自分と同じ道筋で考え、同じところで引っかかる。
だから自分で理解した通りに話せば分かってもらえる。
様々な思考形態、知識量の人に説明するためには、自分とは異なる思考形態に対する理解や想像が不可欠だけれど、それら全てに対応しようとすると説明が長くなる。
自分と同じ知識量、思考形態を持つ人にとっては、かえって分かりづらい。

間をとって、会話しながら伝え方を調整する方法もある。
オーダーメイドのように。
いずれにしろ、総合的な説明のうまさは想像力によっている。


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