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相手の時間

以前は、よく人との待ち合わせに遅れていた。
根本的に考え違いをしていたからだ。
遅れないようにと約束の30分前に着いたとき、損をしたような気になっていた。
だからぎりぎりの時間に家を出る。
乗り継ぎがうまくいかなかったり、予想していたより駅から待ち合わせ場所までが遠かったりして、結果、間に合わない。
悪いと思うから、一応、走るし、相手に謝る。
けれど、それでも、早めに家を出ようという気にはなれなかった。

ちなみに姉もよく待ち合わせに遅れてくる。
現在、姉もわたしも東京に住んでいるので、たまに待ち合わせをする機会がある。
姉弟そろって小心者なので大遅刻はしない。
だいたい10分か15分くらい遅れてくる。
姉は、わたしよりせっかちな上にスケジュールを詰め込むタイプらしく、いつもせわしなく何かをしている。
前の用事のすぐ後に待ち合わせ時間を設定しておいて、綱渡りのような乗り継ぎと全力疾走で、場合によってはタクシーに乗り、お金でなんとかしようとする。
つまりは力づくだ。
何もお互い、仕事のスケジュールが分単位で入っているような人間ではない。
姉は普通に企業に勤めているし、わたしは大学で研究をしているだけだ。
だとしたら、時間的な余裕をもって行動することに納得がいっていないか、あるいはうすぼんやりとした不快な印象を抱いているだけだ。

働き始めると、お金よりも時間が貴重になる。
この傾向は年々、自分の中で強まっている。
もちろんお金はとても大切だし、今でも余っているわけでは決してない。
単純に、相対的な問題として、時間の方がなくなってきているだけだ。
時間についての感覚が変化していく中で、相手のために時間を使うことは大切だと思うようになった。
何がきっかけだったか正確に思い出せないのだけれど、多分、ラジオかなにかで話されていたことだったような気がする。
約束より早くつくのは、自分にとっては時間の浪費かもしれない。
けれど、待ち合わせの相手の時間を奪わないために自分の時間を使っているのだから、それはとても意味のあることだと思うようになった。

以前は、せっかちな性格が原因かどうかわからないが、出先で時間を潰すことにもストレスを感じていた。
合理的な行動ではないように思っていた。
しかし、待ち合わせ場所で時間を潰すことに意味を見出した瞬間、そこで本を読んだり、ただぼんやりしていることを何とも思わなくなった。
むしろ、ぎりぎりの時間に行動していた時より、ずっとストレスが少なくなった。
学生の頃から、1時間前には必ず行動を開始しているような几帳面な奴が、周囲にひとりはいた。
彼らの気持ちが少しわかるようになった。
なんというか、もともと時間通りに行動するひとにとっては、何を今さらと思われるかもしれない。
けれど自分にとっては、ちょっとした価値観の転換だった。

今日の話で、わたしが以前より人に迷惑をかけなくなったと言いたいわけではない。
ましてや、時間に遅れることはいけないと主張したいわけでは全くない。
そうではなくて、自分が生活する上でちょっとだけ楽になったという、ごくごく自己中心的な感想を述べているだけだ。

そもそも今でも、時々、待ち合わせに遅れる。
その度に謝って相手に赦しを乞う。
『いんよう!』というポッドキャスト番組をヤンデル先生とやっているが、彼の方がいつも早く準備を整える。
予定開始時刻の30分くらい前にはスタンバイしている旨のメッセージが来て、毎回、慌てている。

考えを改めても、日常生活を送る能力が人より乏しいのに変わりはない。

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