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脳内バイリンガル

説明するにしても自分の気持ちを伝えるにしても頭の中で文章を作ることに特別の難しさを感じない。
けれどこれは、伝えるべきことが常にそのまま口から出てくるということでない。

緊張するとしどろもどろになるし、相手が不快になるのではないかと心配しすぎて言えなかったりする。
だから少なくとも外面的には、いつも綺麗に言語化できているわけではない。
そしてそういうことも全て「言語の運用」に含まれると思う。

仕事をしている時、人と話している時、そのあたりがすっぽり抜け落ちたまま相手の言語運用能力を見積もってしまっているケースを見かける。わたしもそうだ。
例えば研究室のミーティングでうまく発表できない学生に対して勉強が足りないと注意したけれど、実はその学生は答えを知っていて言葉にする能力もあるのに、何らかの理由で話せなかっただけかもしれない。
ボスが無意識に威圧したり急かしたりして、しばしば学生の言語能力を奪っている。
明らかなパワーハラスメントなどではなく、もっと普通の関係の中でも起こっていることだと思う。

大人として、理由はあれど説明すべきことを言葉に出来ないことに責任を取れというポリシーは理解できる。
しかし、説明できないのは知識や理解が足りないからだと決めつけて叱責するのは、少なくとも的外れだ。
文章を構成する能力がそんなに高くなくても、いついかなる時も頭の中にある言葉を口にできる精神を持っていれば、表面的にはスラスラと言語を運用しているように見えるだろう。
後でよくよく考えてみると論理が破綻していたとしても、その場では言葉を操るのが上手い人に映る。

相手と対峙し、即興として表現しなければならないから、音声による言語表現は特に身体依存性が高い。
それに対して書く行為はもう少し頭でっかちだ。
キーボード入力にしろ手書きにしろ、ある程度、身体に依存していることに変わりはないけれど、話す行為よりは純粋に精神的行為だ。
口頭ではうまく説明できないけれど、明瞭な文章を書く人はたくさんいると思う。

ただしここでもう一つの問題が、少なくとも私を苦しめる。
話している時と同じような思考回路で文章を書き始めると、全然、筋が通らない。
話している時は戻らずにただ前に進むので、多少の論理の曖昧さが許される。
勢いや雰囲気、という言葉で片付けてしまっていいのか判断しかねるが、話している時には腑に落ちていた内容を書いてみると、とたんに論理は破綻し分析はずさんで言葉の選び方は間違いだらけだと気づかせられる。

今、書いているこの文章も思いつくままに書き、それから直している。
最初の文章はぐちゃぐちゃだ。
順番を入れ替えたり一部の文節だけを別の文に持っていったりして、最低限、読める文章にしようと格闘している。

仕事柄、論文や申請書、報告書を書く機会がある。
にも関わらず、内容を明晰に伝えることを目的とした文章を書く技術は一向に上達しない。
多少でも上手くなっているとしたら、それは直すのが上手くなっているだけだ。
頭の中で的確に言葉を並べる能力はほとんど変化していない。

改善するためには多くの本を読めば良いのだろうと漠然と考えていたが、最近は別の問題ではないかと感じている。ただの直感だけれど。
本来、人間が持っている言語の運用能力は発話することを前提に発達していると思う。
書くための能力は、外付けハードディスクのように後から付け加えられているのかもしれない。
だとすれば書くという行為は、発話するために頭の中で作られた文章を筆記用に翻訳する作業を意味する。

英語を直訳したら意味の取りづらい日本語になるように、頭の中の言葉をそのまま書くと不自然な文章になってしまう。
思うままに書いてそれが素晴らしい文章になる人というのは、表現したい内容とは別に、話すことと書くことのバイリンガルに違いない。

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