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理由はどうでもいいが、どうなっているか知りたい

飲茶さんの『正義の教室』と大栗博司さん・佐々木閑さんの『真理の探究 仏教と宇宙物理学の対話』を読んだ。
どちらもふんわりと追いかけている人が書いている。
わたしは普段の生活で出てこない抽象的な話が好きらしい。
多分、現実逃避で、アニメが好きなと同根だと思う。

『正義の教室』の中で、「宗教的な正義」について説明がなされていた。
これは何も、イスラムの正義とかキリストの正義とかそういうことだけではなく、もっと広く、正義の源泉を論理の外に求めることを指すらしい。
生まれつきの良心に委ねるという話だ。
一神教は、神を「発明」したと思っているのだけれど、そういう絶対的な存在を置くことでこの世の理不尽を解決しようという試みではないかと思う。
「真面目に働いている人が強盗に殺される」のように、理不尽なできごとに傷ついたひとがどう心を慰めればよいのか。
そういう普遍的な人間の悩みというか認知的不協和を解消すべく生まれたのだと思う。
絶対的な存在を信じられさえすれば、この解決方法は最も強力だと思う。
しかし度々、こういった超越者を認めないで問題を解決しようと試みるひとが現れる。
ブッダもその一人で、だからわたしは彼のにわかファンだ。
現在、日本に根付いている大乗仏教は彼の思想からはだいぶ離れてしまっているらしく、神秘的な要素も相当の割合で見られるが、ブッダはもっと合理主義的だったと思う。
著者のひとりである仏教学者の佐々木閑さんはさらに、輪廻などの古代インドの世界観をそのまま受け入れて信じるのは無理があると言い切っていた。
輪廻を信じなくても、彼の考え方や方法自体は普遍性があるからそれを道しるべにして人生を送っているということらしい。
このスタンスが、仏教者や仏教学者の中で多数派なのか少数派なのか知らないけれど、わたしにはとても受け入れやすい。

にわかファンなりにブッダの思想を説明してみると、彼曰く、世界は法則に従って動いている。
病気になったり、老いたり、死んだりすることはこの法則に沿った現象だ。
世界は色々な要素が相互作用して成り立っていて、作用し合うことによって全てのものは変化していくと捉えていた。
人間の心や体も、要素が一時的に集まってできているので、それらはやがて変化する。
そういった観点から考えると、老いることや死ぬことは当たり前であり、必然だ。
しかしながら、人間の心はその当たり前のことに悩んだり、恐怖を感じたりするようにできている。
どうしたらよいか?
世界の法則は普遍的で変わらない。だったら、心の方を変えるしかないでしょう、ということらしい。
この割り切り方というか、身も蓋もない答えが個人的にはツボに入る。
全然、関係ないのだけれど、アインシュタインが、速度が変わらないのなら時間か距離が変わればいいのではないかと考えて相対性理論を作り出したのと同じ単純明快さがある。

世界はそういう風に出来ているのに、それをあるがままに受け入れられないように心は作られしまっている。
だから、その心の働きかたを自分で少しずつ変えていけば苦しみから解放される、という理屈だ。
もう全く、絶対な存在の出番がない。
ちなみに、どうしてそういう法則があるのかについては触れないらしい。
そこは苦悩を解決する上で、大切じゃないからだと思う。
理由はどうあれ世界の法則に変わりはないから、そこを出発点に考える。
科学も、なぜ物理法則が今あるようになっているのか問わない。
エレガントで秩序だった法則に従う様子は神秘的で美しいが、理由を探すのは科学の役目ではない、という立ち位置をとっている、はずだ。

ブッダの、彼なりにたどり着いた思想や世界の捉え方が、普遍的で現代でも有効であれば、地獄や輪廻がないこととは別に、彼の思想を参考にしてもいいはずだ。


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