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好きなものは好きだから好き

浅生鴨さんがnoteに、自己肯定感を得るためには他人を褒めればいいと書いていた。

https://note.mu/asokamo/n/n6f022477ee46

わたしは、まあまあ自己肯定感が低い。
めちゃくちゃ低いわけではない。でも平均は下回っていると思う。
だからぼんやりとではあるが、自己肯定感についてずっと考え続けている。
この機に乗じて浅生鴨さんの意見に少し付けたしておく。

自己肯定感とは、自分が認められるできごとのないフラットな状態でも自分を受け入れられる感覚を指す。
会社で出世するとか、恋人がいるとか、勉強ができるとか、運動が得意だとか、他人から承認を得られる状態に身をおいて感じるのは自信であって、それは自己肯定感ではない。
自己肯定感のあるひとは、自信がなくなってしまっても自分を特別だめな人間だと思ったり、生きることに疑問を覚えたりしない。
自然に、無条件に自分を受け入れられる。

望むものが手に入らない時やミスを犯した場合は誰しも落ち込む。
でもそれは自信を失っているだけだ。
努力や才能によってなにがしかを得る行為によって身につく自信と、何もない状態での自己肯定感は本来、関係がないと思う。
しかし自己肯定感の低いひとは、自信によってのみ自分の存在意義を感じているので、自信を失うとそのまま自分を肯定できなくなる。
自分に備わった能力によって自分の心を支えているから危うい。

養育者による無条件の愛情は自己肯定感に関係すると思うが、成人してから自己肯定感を改善するために、他人を褒める行為はとても役に立つと思う。
しかし、嫉妬やコンプレックスやルサンチマンを自覚しそれらを抑制した上で他人を褒める行為は、なかなかに敷居が高い。
ほとんど同じことだけれど、代わりにわたしは、自分の好きなものを好きだと言うように心がけている。

褒める行為には、自分の基準で相手の良いところを探して表明する積極的なニュアンスを感じる。
だから、ともすれば上からの物言いをしてしまいそうな気配がする。
そんなのはどう考えても気にしすぎで、余計なことを考えずに褒めればいいと思うのだけれど、そもそも自己肯定感の低い人間は、自分の価値判断を正しいと思えないのだから、相手をジャッジする行為はどうにも気が重い。
なにかを好きになる現象はそれに比べて受け身だ。
気がついたら好きになっているので、価値判断を絡めている感覚がうすい。

褒めることでも好きになることでも結局は、それらを目の前に並べていけばやがて自分の傾向は自覚される。
傾向が蓄積して各人の価値観が形成され、自分が良しとする基準もでてくるだろう。
褒めても、好きだと言っても、到達する地点は同じだ。

わたしの好きなPodcastの「熱量と文字数」に、漫才コンビ「やさしい雨」の松崎克俊さんが出演している。
見た目から嗜好から、すべてがゴリゴリのオタクなのだけれど、彼によるとオタクの定義は「自分の好きなものを好きと言うこと」と言っていた。
だから今日のnoteはすべて彼の受け売りみたいなものだ。
たとえ世間から後ろ指をさされるような作品であっても、好きなものは好きだと言いたい。
社会の、周囲の価値観に屈っせず、かといって自分の好みやセンスを自慢したいわけでもない。
なにがどうあっても好きなのだからしょうがない。
ただ作品を好きで、作者に敬意を表したいだけだ。
話を聞くにつけ、どちらかというと開き直りにちかい。
思春期に大きなダメージを受けた自己肯定感を抱えて、それでも松崎さんが社会とのつながりを保っているのは彼のこの信条によるものだと、勝手にひとりで確信している。

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