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世界の溶ける感覚

東京ポッド許可局というラジオ番組で、9月から12月にかけて必ず話題になることがある。

「夏が終わったら、もう年末」

パーソナリティーのひとりであるプチ鹿島さんが言い出したことなのだが、とにかく秋から年末までが毎年あっという間に感じる、という意味だ。
夏も終わり頃に、今年こそは充実した年の後半を過ごそうという、意識が低いのか高いのかわからない、一種の標語だ。
そもそもこの番組のパーソナリティーは三人とも芸人なのだが、ロジックを極めた現在の高度な「お笑い」以外にも、面白いことはあるのではないかと考えている。
そうした文脈の中で、「実感したことをただ話す」という極めて主観的な行為におかしみを見出したりしている。
だから、前述のフレーズもただの実感である。

三十を過ぎたあたりから一年の長さが短く感じられるようになったというのはよく聞く話で、自分でもそう実感する。
主観的な時間の長さというのは言うまでもなく、個人や状況によって相当な程度、変化する。
どう感じるか次第なのだから、当然といえば当然だ。
一方、物理学の世界でも時間が伸縮するのは有名な話で、アインシュタインが相対性理論の中でそう提唱した。
重力の強さや速度の違う系では、それぞれ時間の進み方が異なる。
こちらは主観ではなく、時計の進み方がずれるような、いわば客観的な時間の進み方の違いである。
「今週はあっという間だった」という主観的な時間の進み方と、相対性理論の中でいう「時間の伸縮」というのは全く違うものだと思う。
だから、相対性理論の話になったときに、主観的な違いを例として出されると納得がいかない。
でも、しかし、アインシュタイン自身がこの例を使っている。

——熱いストーブの上に一分間手を載せてみてください。まるで一時間ぐらいに感じられるでしょう。ところがかわいい女の子と一緒に一時間座っていても、一分間ぐらいにしか感じられない。それが相対性というものです。

これとそれは違う話だろう? と今でも思う。
けれど、あのアインシュタインが言ったのだとしたら、わたしに抗う術などない。
本当に同じものとして話したのか、不正確でもいいから、時間が伸びたり縮んだりすることを理解してほしいと思って例え話をしたのか、よくわからない。
今でもこの例え話を思い出すと、心もとない気持ちになる。

さて、主観的な時間と客観的な時間は明確に違うのだとわたしが思っているとして、だからと言って、時間というものが何なのか知っているわけではない。
物理学者も時間の正体を明らかにしていないのだから当然だ。
最近、noteでも少し書いたけれど、時間や空間は本質的な存在ではなく、素粒子の振る舞いの中から「立ち上がる」という仮説があるらしい。
主観や客観以前に、時間自体が絶対的な存在ではないかもしれない。
心もとないどころか、自分の体が世界ごと溶けていくようだ。
そもそも、人間が感覚として持っている「時間」と、物理学が明らかにしていくであろう「時間」が同じものを指しているのかどうかすらわからない。

物理学は、目で見えるものの観測から始まり、20世紀を迎える頃、人間の直感から完全に乖離した。
相対性理論の「時間や空間の伸縮」ですら直感の許容限界だったのに、量子力学の登場によって、はるか彼方まで飛んで行ってしまった。
主観であろうが客観であろうが、我々の受け取る情報はすべて我々の五感に由来しているし、直感であろうが論理的思考であろうが、我々の精神活動はすべて我々の神経組織の構造に依存している。
である以上、人間がこの世界の全てをきちんとわかるかどうかは不明だ。
むしろ、地球が偶然持っていた環境の中、「自己複製が継続する」というルールのもとで進化を遂げたにすぎない人間が、世界を正しく捉えられる必然的な根拠はなにもない。
科学が進めば進むほど、我々は人間の捉えられる領域の限界に近づく。
知覚の境界線上にある現象や理論が、とてもヘンテコで奇異なものに映るのは、それが人間の見慣れない世界だからだ。
科学の先端にいる人たちは、本来、人間が受け入れがたいものを理性だけで何とかしようとしている。
異文化との融合だ。
初めてアメリカ大陸に上陸した人たちの精神性とそう変わらない。

1月はもう大半が過ぎた。
年末に立てていた実験の計画は、半分も終わっていない。
あっという間に過ぎたことに、愕然としている。

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