石井春波の戦後
石井春波は無声映画華やかりし頃に活躍した活動弁士の一人である。兄の孤峰・雷音もまた活動弁士で「石井三兄弟」として売れに売れた。
経歴やその活躍は、片岡一郎氏の労著『活動写真弁史 映画に魂を吹き込む人びと』に詳しいのでそちらに譲るが、無声映画の絶頂期には西村楽天や染井三郎といった人気者と鎬を削り合い、一時は数百円(当時)の給料を取る程の大スターであったという。
震災前には「文芸活動写真協会」を設立して地方への映画啓蒙を努めたり、震災後には「説明者協会」を作って、映画説明者の地位向上や結束に努めたというが、寄るトーキーの波にはついに勝てず、他の弁士同様に廃業せざるを得なくなった。
その後の彼は、ラジオの「映画物語」と称する口演で往年の名調子を聞かせたり、漫談に挑戦したり、とかつての名声や人気をうまく使って、相応の人気を得ていたが、1930年代後半よりはじまった長くて暗い戦争がその活動を阻害した。
結局戦争が終わった後、石井春波は消息が辿れなくなる――というのが定説であったが、どうも戦後は軽演劇をやっていて、相当の人気があった事を発見した。確定診断にはならないけども、60過ぎても活動していたといういい資料にはなる。
出典は『アサヒ芸能新聞』(1954年6月1週号)の、松浦善三郎『関東芸能人斬捨ご免』。当時春波は62歳。その頃の平均寿命を思えば、結構な老齢である。
以下はその引用である。
★石井春波一行(漫劇)
往年の無声映画の弁士。したがって現在弥次喜多道中記等をもって地方に出掛けると、意外なところでオールド・ファンに声をかけられ、感激をあらわにすることがあるという。常時五人ほどの座員とともに、いわゆる軽演劇をやっている。年配がら、柄から春波はつねに老役。それも珍妙なマイクを生かして三枚目。へたに力まないで、サラッと演じてゆくこの人の舞台には一種いうにいわれぬホノボノとしたペーソスがもられている。真疑のほどはしらない売り出す前の名もない美空ひばりといっしょに旅をまわって苦労をなめたことがある――というのが、この老人のいまはなつかしい思い出話。昔日の看板にこだわらず、時流にあっさり乗ったバリアッチョがはたらくのがたのしみとばかり、祭礼などの余興にも気軽くでかけてゆくので、東日本各地の少年少女にも、ハゲのスッポリをつけた軽演劇人石井春波としてたいへんな人気。なにか世の中を割りきった浪漫的な生き方を、身をもってしめしている人物。すずめ百までの例にもれず、おそらく舞台で死ぬことを本懐としているのであろう。