37歳のバージンロード
#昭和の恋愛小説 #中編小説 #登場人物少なめ # #50000文字
#友達以上恋人未満 #30代後半 #情婦兼家政婦 #種馬とATM #スピード婚
あらすじ
有希子は37歳になるまでの10年間、「逢いたい」と思えば、いつでも逢える距離に親友の裕也がいた。二人は知り合ってから15年の間、いつも友達以上恋人未満のままで、お互いの部屋の鍵を持ち合うほどの間柄だった。二人は手をつないで歩いたり、抱きしめあったりはするが、それ以上の関係には進まなかった。37歳と結婚適齢期をとうに過ぎた有希子は、裕也に相談もなく違う人と結婚を決めてしまう。
【序章】 裕也の部屋にて
裕也はフローリング張りのキッチンでエスプレッソマシンをセッティングしていた。いつも同じ服を着回している物欲があまりない彼にしては、珍しく奮発したイタリアのデロンギ製のマシンだ。
5分程前に有希子からの電話を切った後、裕也は真空にできるプラスチックケースからコーヒー豆を出し、エスプレッソマシンと一緒に買ったミルで豆を挽いておいた。豆を挽くときは隣の住人に迷惑がかかるような轟音がするので、有希子が来てから豆を挽くと話が中断してしまうので、いつも予め挽いておく。コーヒー豆はエスプレッソ用のナンバーワンメーカーのラバッツァ。香りとコクのバランスが良いので気に入っている。
お代わりを含めた4杯分の豆を挽き終わると同時に、マンションのチャイムが短く3度鳴った。有希子が来たという10年前から続いている合図だった。
「どうぞ!」
裕也はキッチンから玄関に向かって言った。玄関の前に立つ有希子に裕也の声は届いていたが、彼女はドアを開けようとしなかった。
(入れないってば!)
有希子はそう思いながら、もう一度チャイムを3度鳴らした。
(あぁ、そうか…)
裕也はそのチャイムの意味に気付き、小走りに玄関へ行き、ロックを外して有希子を迎え入れた。
「ごめん、ゴメン。忘れてた。」
裕也は悪びれなく笑顔で有希子を出迎えた。
「まぁ、あたしも実感はないからね、まだ。」
以前、有希子は裕也の部屋の鍵を持っていたので、自由に出入りができていた。先々月、【けじめを付けなきゃ】と言って彼女は裕也に鍵を返していた。
つい最近までの二人にとっては、極々当り前のことが、急激に変わったことに慣れずそれぞれが戸惑いを感じていた。
シーン【1】 有希子の田舎(愛媛)にて
有希子は6月に突然結婚をすることを決めた。相手は今年の冬に知り合ったばかりだから、本当に突然の話だ。38歳になる7月14日の前に、どうしても結婚しようと思って半ば強引に既成事実をつくり、相手を説得した。夫になる人は付き合って半年の国家公務員だった。
ゴールデンウィークに愛媛の田舎へそこのことを報告に行くと、母親は諸手を挙げて喜んでくれた。娘が結婚することを半ば諦めていたところへの朗報だった。母親は一人娘の有希子が結婚できないことを、離婚した自分のせいだと思っている節があった。
母は今、愛媛に一人で暮らしている。有希子が20歳の誕生日を迎えた日、父親は母と有希子に離婚を告げた。物心ついた頃からもう十数回繰り返されている誕生日のお祝いが終わり、母親が片付けに立とうとしたのを【話がある】と父が止めた。
母が席に戻ると、父は一呼吸おいて【離婚したい】と下を向いて言った。それまでのお祝いの雰囲気が居間ごと冷凍庫に入れられたかのように、一気に冷たい空気が流れ込んできた。3人が座るテーブルには、まだお祝いのケーキが半分残っている。ケーキはいつも父親が買って帰ってくる。今年も有希子が好きな店のガトーフレーズを父は買ってきてくれた。仕事で遅くなった父の帰りを待ちくだびれていた有希子に笑顔でケーキの包みを渡してくれてから、まだ2時間と経っていない。有希子は離婚話に全く似つかわしくないケーキをじっと見つめたまま、黙って父の現実味のない話を呆然として聞き流していた。
有希子は両親の夫婦仲はすごく良いとは思ってはいなかったが、決して悪い方ではないと思っていた。子供に手がかからなくなり、銀婚式も間近になる夫婦であれば、こんなものだと思っていた。ましてや浮気という言葉が想像できない、愛媛の片田舎で教師をやっていた厳格な父親だったからなおさら信じられなかった。
有希子の意に反して、父の離婚劇は用意周到だった。今の担任の学年が終わる来年の3月に辞めると既に辞表を提出していた。明日からは学校の職員用の寮に暮らせるよう、準備してあると言った。辞めた後は高松の学習塾で働くことも決まっていた。高松には母と結婚する前に付き合っていた女性が住んでいて、彼女と一緒に暮らすのだと言った。そして自分に腹違いの兄がいることも、このとき初めて知らされた。
母はそのことに結婚前から薄々勘付いていたことを初めてため息と一緒にもらした。家も財産も全て母に渡すという公正証書の中身をかいつまんで母に説明して、離婚届と一緒に父は黙って母に差し出し、母と有希子が座る誕生日のテーブルを離れた。
母親は父が居間から出て行くと、肩を震わせ声を出さずにいつまでも泣いていた。有希子は事態が飲み込めず、しばらく呆然としていたが、泣いて立ち上がることができない母の代わりに、誕生日の後片付けを泣きながら自分でした。
翌朝起きたときには、父の姿はなかった。朝早く出て行ったらしい。それ以来有希子は父親に会うことを拒んだ。20年も毎日顔を合わせていた父を失うことは、彼が母にした仕打ちを考えれば大したことには感じなかった。母はその日から笑わなくなってしまった。母にとっては自分の半生を否定されたに等しい。気難しい父親の帰りを、毎日玄関で迎え、笑顔を家に振り撒いていた母はその日を境にいなくなった。代わりに無表情で無気力な母がいた。
母は家のことは最低限しかしなくなった。それまでは【この家にはホコリというものがないんじゃないか】と思うほどピカピカだった家や、季節ごとに色とりどりの花々を咲かせる花壇は、有希子が大学を卒業して家を出るまでの2年間で見る影もなくなった。
母を田舎に置いていくことも辛かったが、生きる気力を失った抜け殻のような母を見るのも辛くて、就職は東京へ出ることに決めた。母にはお金と家は曲がりなりにもあり、当面の生活には困らないし、一応食事と洗濯は習慣なのか、きちんとやっていたのでそれほど心配ではなかった。
盆と正月にはいつも母の顔を見に帰省していた。その度に有希子の顔を見ると少しだけ笑顔を覗かせるが、あとは帰るまで3人で暮らしていたときのような笑顔を見ることはなかった。
22歳で家を出てから、15年。初めてゴールデンウィークに帰省することにした。前日電話で突然帰ることを告げたので、母は何事があったか心配だったらしい。
有希子が玄関を開けるなり、母は台所から飛び出してきた。夕食の支度で濡れていた手をエプロンで拭きながら、有希子に「どうかしたの?」と心配そうに尋ねた。答えを急く母をようやく居間に引っ張り込み、自分で入れたお茶を飲みながら結婚を前提に同棲することを報告した。
母は有希子の言葉にびっくりしたと同時に、父がいなくなって以来はじめて、満面の笑顔を有希子に見せた。その母の顔を見られただけでも、この選択は正しかったと純粋に思った。
そう、自分のようにいつまでも嫁に行かず、孫の顔も見せられないのは、とても親不孝なことなのだろう。親にとって自分の子供はいつまでたっても【子供】だ。その子供がいつまでも落ち着かないのでは、親は安心して死ねない。そんな単純なことにようやく最近になって気付き、【子供を欲しい、孫を見せてあげたい】という衝動にかられた。
「まだ、間に合うから。」
と母が孫の顔を期待して言った言葉に、喜びと裏切れない覚悟を感じた。
その日の食卓では、母はとても上機嫌だった。こんなにはしゃいだ母を見るのは父が出て行ってからは一度もない。【どんな方なの?】、【出身はどこ?】、など彼のことを根堀葉掘り矢継ぎ早に訊いてくる。彼とは知り合って半年しかたってなかったので、母の質問に全て答えられるほど彼のことをよく知らなかった。母から訊かれて(そういえば、知らないなぁ)と思うことが多々あった。
「ご実家では、お味噌はどっちなの?」
こんな質問は訊かれても知る由も無かった。まだ、彼の両親とは外では会ったが、実家には呼ばれていない。
「さぁ、彼のアパートにあったインスタント味噌汁はどっちもあったわ。」
「結婚したての頃、お父さんと散々もめたのよ。赤か白かって。」
母がそのときの光景を思い出しながら言った。
「それで、うちは合わせ味噌なの?」
「そうよ、間をとってね。お母さん一人になってからは白味噌だけどね。」
母は笑いながら言った。
滞在した二日間は彼についての質問攻めと、母が結婚したばかりの頃の苦労話を聞かされ、有希子はいい加減うんざりしていた。でも、おかげで確認できたことがあった。自分が彼のことを、母が知っている父の千分の一も知らないことだ。
(こんな状態で同棲なんか始めていいのかしら?)
母の質問に全然答えられない自分を不安に思いながら、眠りについた。
シーン【2】 愛媛からの帰り道にて
裕也に結婚の報告をしたとき、彼は母の笑顔とは反対に微妙な笑顔だった。ゴールデンウィークの最終日、有希子は母に送られて実家を出ると、空港へ向かう為に駅へ足早に歩いた。田舎町の駅なので、乗り過ごすと1時間は待たされるから、飛行機の時間に間に合わなくなってしまう。電車はところどころトンネルがある為、電波状態が良くないので、駅まで歩いている間に、裕也に電話を掛けることにした。
呼び出し音が6回鳴って繋がった。
「もしもし、石川ですけど、今大丈夫?」
休日のお昼前だったので、裕也が寝ているかもしれないと思って尋ねた。
「あぁ、大丈夫だよ。今日の夕食用に煮込んでいるところ。」
裕也は使い込んで少し角が削れたヘラで、ステンレスの鍋の中身をかき回しながら言った。
「あら、今夜はもしかしてシチュー?」
有希子は裕也の作るシチューの味を思い浮かべ、声を弾ませて聞いた。
「当り!」
「あたしの分もあるのかしら?」
「あと8時間以内にくれば、保証するけど。」
「迎えに来てくれれば、十分間に合うわ。」
「どこにいるの?」
裕也はヘラの先をアク取り用の水が張ってあるボウルへ沈め、鍋に蓋をして携帯電話を右手に持ち替えた。
「田舎から帰るところ。2時台の飛行機に乗るから、4時前には羽田に着くわ。」
「珍しいね、盆暮れじゃないのに。」
有希子が田舎へ帰るのは、決まって盆と正月だけだったので、裕也は不思議に思って聞いた。
「ちょっとね。それよりお迎えには来られるの?醤油味ばかりで舌がうんざりだわ。」
「今年の正月もそう言って、空港に迎えに行った帰り道に味噌ラーメン食べたっけ。」
「まだ3が日だったから、やっているラーメン屋さんが無くて、さんざん走り回ったね。」
有希子は笑いながら言った。人通りの少ないシャッター商店街では、電話で話す声が響いて自分にも反響して聞こえた。
「そうそう、結局中華街まで行くハメになった。」
「まぁ、いい思い出じゃない。人生思い出づくりよ。」
有希子がごまかすときに使ういつもの言葉で、話をはぐらかした。
「じゃあ、4時に羽田へお迎えにあがればよろしゅうございますね、お嬢様。」
「うん、苦しゅうない。待っておるぞ。」
「なんじゃそりゃ。JAL?ANA?」
松山-羽田便は2社とも運行している。以前有希子を迎えに行ったときに聞かずに行ってしまい、なかなか逢えず、有希子の機嫌を損ねたことがあった。それからは迎えに呼ばれたときは、どちらか必ず聞くようにしている。当時は携帯電話が普及してなかったので、待ち合わせは今より難しかった。ただ、羽田は今のように広くなかったし、運行会社別に分かれていなかったのが、まだ救いではあった。
「JALよ。」
「じゃあ、1タミね。」
「うん。早く着き過ぎてカレー食べちゃわないようにね。」
有希子は到着ロビーの前にあるカレー屋の強烈な香りを思い浮かべて言った。以前同じように裕也が迎えに来たとき、一緒に食事をしようと思っていたのに、裕也は有希子を待っている間にカレーの匂いの誘惑に負けて、有希子が着く前に大盛りカレーを食べてしまい喧嘩したことがあった。
「了解。じゃ、あとで。」
「うん、後でね。」
有希子が電話を切ると、シャッター商店街の寂れたアーケードの向こうに、ポツンと小さなトタン屋根の駅舎が見えてきた。
シーン【3】 裕也の部屋にて
裕也は電話を切ると、携帯で時間を確認した。待ち合わせまではまだ4時間以上ある。
(ゴールデンウィーク最終日の渋滞を考えると、14時には出た方が良さそうだな。)
身支度を考えると、そんなに時間がないことに気付いた。車もできればきれいにしたかったし、洗濯もしようと思っていた。有希子とは15年の付き合いとはいえ、さすがにある程度の身だしなみは必要だった。最低限、連休で伸ばしっぱなしのヒゲだけは剃らなければ、有希子は激怒するだろう。今朝は昨晩から煮込んでいるシチューに掛かりきりでまだシャワーを浴びてなかったので、火を止めてシャワーを浴びることにした。シチューを作ることが好きな裕也が使う鍋は、保温機能が高く少し温めるだけでしばらくは勝手に煮込んだのと同じ効果がある。
シャワーを浴び、バスルームに備え付きの湯気で少し曇った鏡を見て、久し振りに伸ばしたヒゲ面を触った。4連休の間剃らなかったので、先は少し柔らかかった。
「有希子だってたまにヒゲ生やしているのに、どうして俺のヒゲは嫌がるのかねぇ。」
独り言を言いながら、裕也は久し振りに伸びたヒゲをカミソリできれい剃りあげた。この連休は有希子から音沙汰がなく、久し振りに伸ばしっぱなしだったので、剃るのが少し惜しかった。
有希子が裕也のヒゲを嫌がるのは、痛いからという理由だった。いつからかは判らないが、もう10年以上もの間、二人で過ごした日の別れ際はいつも抱きしめ合う。そのとき、頭半分位の身長差があるので、有希子の額に裕也の顎の辺りが自然とあたり、痛いというのが理由だった。
ヒゲを剃り終えて、洗面台の右側のタオル掛けからバスタオルを手に取った。ふと左側のタオル掛けが目に入った。
(しばらく来てないから洗ってなかったな)
左側のタオル掛けには、有希子の為のタオルがいつも掛けてあった。裕也はざっと身体をバスタオルで拭くと、それを腰に巻き、有希子のタオルを手に取ってバスルームの隣にある洗濯機に放り込んだ。
(まだ間に合うかな)
バスケットに入っている洗濯物もタオルの上に放り込み、洗剤を入れて洗濯機を回した。
そのままの格好でキッチンへ行き、ガスコンロを弱火に調節して火を付け、シチューの鍋を乗せた。
冷蔵庫からボルヴィックのペットボトルを取り出し、そのまま飲んだ。
(運転がなければビールなのに)
裕也は飲みたい衝動を抑え、ペットボトルを冷蔵庫に戻した。
寝室で着替えを済ませ、キッチンへ戻りシチューをかき混ぜると、時間を確認してまた火を止めた。念の為、ガスの元栓が締まっているかをもう一度確認してから、玄関へ向かった。玄関の壁に掛けてある鍵掛けから、鍵の束と車のメインキーを手に取った。一番左のフックは、有希子が使う為にいつも空いていた。
マンションの廊下へ出てエレベーターに乗り、地下の駐車場で降りた。
エレベーターに一番近い場所が自分の駐車場だった。ダークグリーンの車体に白い屋根のミニクーパーに乗り込み、エンジンを掛けた。3年前に乗っていたアウディワゴンがエンジントラブルで壊れた後にこの車を買った。裕也はそれなりに気に入っていたが、有希子には評判が良くない。前と比べて車内が狭くなったことが気に食わないらしい。裕也はゆっくりと地下駐車場のスロープをゆっくりと注意深く昇った。
ここ最近、明るさに対する目の反応が遅くなり、明るさが変わると少し怖く感じるようになっていた。高速道路で長いトンネルの前に【トンネル注意】と書いてある意味や、年配の女性が似合わないサングラスをかけている意味が自分にも判るようになった。いわゆる老眼というやつだ。仕事で使うパソコンの画面がやけに明るく感じるのも、デザイナーという職業柄、危機感を感じ始めていた。
マンションから2ブロック先にあるガソリンスタンドまで走らせ、ガソリン満タンと洗車を顔見知りのスタッフに頼み、14時頃に取りに来ることを伝えた。たった今、車で走ってきた道をぶらぶら歩いて戻った。ゴールデンウイークの最終日だからか、昨日までより人や車が多い気がした。
部屋へ戻ると、ちょうど洗濯が終わっていた。シチューにまた火を入れ、洗濯物を洗濯機の前に置いてあるハンガーラックに干した。
「せっかく天気がいいんだし、ベランダもあるんだから外に干せばいいのに。」
と有希子は洗濯物を見る度に言うが、雨に降られてしまって再度洗濯することは、無駄に思えていつも室内に干すようにしていた。
キッチンに戻り、米を研いだ。裕也はパンでも夕食になるが、有希子は米粒がないとダメな人だった。シチューにご飯の取り合わせが、裕也には理解できなかったが仕方なく有希子に合わせるようにしていた。米をすすいでいる間に、サラダ用に玉葱とベーコンをみじん切りにして、玉葱は水にさらした。刻んだベーコンを高熱のフライパンで油を溶かし出し、ワインビネガーとオリーブオイル、10年もののバルサミコをフライパンに加える。熱くなったフライパンに液体を入れると、真っ白な湯気が換気扇に向かって立ち上った。このドレッシングは有希子のお気に入りで、有希子にもレシピを教えていた。キンキンに冷えたトマトを輪切りにして並べ、サラダほうれん草やルコラを乗せて、玉葱のみじん切りとこのドレッシングを回しかける簡単サラダだ。出来上がったドレッシングをフライパンから小さなアルミのボウルに移し、ラップをかけて冷蔵庫へ入れた。冷蔵庫の上に置いてあったバケットを包丁で少し切り、シチューの鍋に浸して味見をしてみた。
(いい感じ、これなら有希子も満足だろう)
裕也は予め作っておいた仕上げ用の澄ましバターを加え、軽く掻き混ぜ、蓋をして火を止めた。後は帰ってくるまで余熱で煮込めば完成する。昨日の夜から仕込んでいるので、食べられるまでに丸1日近くかかることになる。土日の休みでさえままならない裕也にとって、シチューづくりは贅沢な時間の使い方の1つだった。
時計は14時になろうとしていた。すすいでいた米の水を調節して、炊飯器にセットした。
(そろそろ出るか)
シーン【4】 羽田空港にて
裕也はガスの元栓が閉まっていることを確認して、部屋を出た。
洗車の為に車を預けていたガソリンスタンドまで歩き、会計を済ました。ほこりだらけだったミニクーパーはすっかりきれいになっていた。車に乗り込み、裏道を通って世田谷通りに出た。車の流れを見る限り、今日は都心方面へ行く方が空いてるようだった。VICS付のナビがあれば、こんなことは考えなくて済むのだが、ただでさえ狭いミニクーパーなので、ナビを置くともっと狭くなるから付けていなかった。馬事公苑の脇を抜け、246を渡り、目黒通りへ出た。目黒のランプから首都高へ入り、羽田空港へ着くまで渋滞というほどの渋滞には巻き込まれなかった。目黒線から環状線へ合流するときに5分ほどかかったが、それ以外は順調で、15時半には羽田空港の駐車場に到着した。
第一ターミナルに隣接する駐車場に入り、迷うことなく1Fの奥を目指した。業務用に確保してあるスペースの奥が死角になっている為、空いていることが多かった。狭い軽自動車用のスペースばかりなことも、ここが空いている要因になっている。ミニクーパーなら軽自動車用でも問題なく止めることができることが、裕也が気に入っている理由の1つだ。
車を降りて、渡り廊下がある3階へエレベーターで上がり、今度はエスカレーターで到着ロビーへ降りた。エスカレーターの中ほどから、到着ロビーの出口前にあるカレー屋さんの香りが漂い、朝から味見しかしてなかったお腹が反応し、音を立てて抗議した。
ロビーにある大きな電光掲示板を見ると、松山発の便は15:45着となっていた。到着ロビーに出てくる人が見える位置の壁に寄りかかり、ジーンズの後ろポケットから読みかけの文庫本を取り出して読み始めた。松山便の到着を告げるアナウンスが聞こえてから10分後に本をしまい、次々に出て来る人を眺めていた。
16時少し前に有希子の姿が大きなガラスの向こう側に見えた。ブルージーンズにストライプのコットンシャツ、その上にモスグリーンのブルゾンをはおっている。有希子も裕也に気付き、ガラスの向こうから軽く手を振った。手を振った左手には小さなポーチを持っていたので、左側を歩いていた中年男性が少し迷惑そうな顔をしていたが、有希子は全く気付いていなかった。
裕也は狭い通路の前へ移動して、有希子を出迎えた。
「ただいま。」
「お帰り。」
こうして裕也が羽田空港へ有希子を迎えに来た回数は、もう両手・両足では足りなくなっていた。毎度のことながら、田舎から帰ってくるとき、有希子は化粧をしていない。飛行機の中は乾燥するからと言っているが、一番の理由は面倒くさいからだと裕也は思っている。一度だけ田舎へ帰るときに羽田まで送ったことがあったが、そのときは化粧をしていた。裕也の車で帰れば、裕也以外の知り合いと会うことは殆どなく、アカの他人ばかりだから気にならないのだろう。20代の頃にはなかった、シミが少しずつ増えていることにはお互い触れないようにしていた。
「お腹すいた~。」
有希子は昔と変わらず、屈託ない顔で裕也に甘えるような声で言った。
「じゃあカレーでも食べて帰る?」
裕也は有希子の布製のキャリングケースを受け取りながら言った。
「いじわる!もうシチューできてる?」
有希子は空いた右手を裕也の腕にからませ、2階へ上がるエスカレーターへ引っ張った。
空港まで迎えに来て、腕を組んで駐車場へ向かう様子を見ていたら、きっと二人は恋人同士に見えるだろう。37歳という年齢を考慮すれば、仲の良い夫婦に見えてもおかしくはない。
しかし二人の間柄は【親友】だった。お互いが誰に聞かれても、そう答える。異性の親友という存在を持たない人にとっては、理解に苦しむ関係かもしれない。恋人よりも仲がいい異性なんて、そんな関係を築いたことがない人にとっては理解する気も起きないらしい。
知り合って15年という歳月は、お互いに換え難い時間だが、いざ恋人ができると足枷になるときもある。
あまりにも居心地が良すぎるのと、自分のことを今の二人の関係と同じレベルで相手に理解してもらうのに、15年も必要かと思うと、気が遠くなってしまうからだった。
「できているよ。有希子の為にご飯も炊いてきたし。」
「さっすが、裕也!わかってらっしゃる。早く帰ろっ!」
有希子は裕也の腕を引っ張って、エスカレーターを急ぎ足で昇った。
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