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聖書を読む人なら、知っておきたいヘブライ語の特徴

※ 途中、多少専門的な引用が出てきますが、適宜読み飛ばすなりして、ぜひ最後までお読みいただければと思います。

ご承知の通り、いわゆる「旧約聖書」の原典は主にヘブライ語で書かれましたが、その動詞の時制は、他の言語とは異なる独特の特徴があります。

ヘブライ語の動詞には2つの態,つまり「完了態」と「未完了態」の2種類しかなく、完了態は完結した行為を、未完了態は完結していない行為や継続的行為,もしくは進行中の行為を表わします。

分かりやすい一例として、創世記1:1と2:1を比較してみましょう。

創世記1:1の「創造された」と訳されているヘブライ語は「完了態」の動詞で,天と地の創造という行為が完結したことを示しています。

一方2:2の「第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。」の「安息なさった(英:rested)」と訳されているヘブライ語は「未完了態」の動詞ですから,完結しておらず,継続的,もしくは進行中の行為を示しているということです。

これはどういうことでしょう。

つまり「神の休み」は現在なおその途上であり、更に千年王国の間も持続しますから、第6日目が終了し、第7日目に入ってから、創造の業を休まれ、今なお休まれ続けているので、「未完了」だということで頷けます。
(ヘブライ4:3-9参照)

ところがです、その少し前の「・・完成され」という動詞は、何と「未完了態」なのです。そしてさらに一つ前の2:1の「天地万物は【完成された】」も「未完了態」なのです。

「完成した」が「未完了」とはどうしたことでしょう。

1章の記述と2章の記述では観点が違うようです。

1章は最初の創造の6日間という、目論まれた計画はすべて完了した故に「完了態」なのでしょう。

しかし、2章の方は、すでに触れましたように、「大安息日」をも含んだ観点から、未だ継続中ですので、千年王国が終わるまでは、「未完了」ということで、そのニュアンスを残して訳すと「天地万物は完成しつつある」という感じでしょうか。

しかし、これらのいずれも英語訳(殆どの言語の翻訳も)は過去形ですし、日本語訳も同様です。

さて、話が前後しますが、この「未完了態」についてもう少し掘り下げてみましょう。

ヘブライ語動詞について、次のような説明があります。

「ヘブライ語では,過去に起きた行為でも,その行為が完結していないとみなされるなら,未完了態の動詞で表わすことがあります。一方,将来の行為でもそれが完結しているとみなされるなら,完了態の動詞で表わすことができます。」

さらにややこしいことに、将来の出来事、今日の文法で言えば「未来形」で表されるものが、「完了態」で表記されている。ということなのです。

話が長くなりすぎないよう、極力専門的な陳述は省いて、簡潔にまとめようと思いますが、聖書をお読みなる人が、どうしても最低限知っておいたほうが良いと思う点を書き記しておきたいと思います。

現代においては特殊に思う、この特徴の成り立ちについて、次の大野普氏 著作「日本語の文法を考える」からの引用は、いくらか分かりやすいかと思います。

「・・ボーマンの言うところによると、イスラエル人は一般のヨーロッパ人が使うZeit(時)にあたる、時間の観念を表す固有の言葉をもっていないという。そして、ヘブライ語には完了体と未完了体の二種があるだけであるという。
「ヨーロッパ人は過去・現在・未来の時称を通して行為を空間に置き換え、それぞれの場合に応じて線上に固定する。これに反して、セム人は、話者の意識が行為を決定する固定点なのである。この場合行為がすでに完了しているか、あるいはまだ発展の途上にあると考えるか二つの心理的な可能性がありうる。(完了しているとみれば完了体であり、発展の途上にあるとみれば未完了体になる。)したがってヨーロッパ人の行為は客観的、非人格的、空間的な方向をとって決定される。ところが、ヘブライ人は主観的、人格的、時間的に思惟する」

これで、なぜそうなってるのかが、少しだけ分かる気がしますが、上の説明の「非人格的、人格的」という表現はどういうことかと言いますと、おそらく、ヨーロッパ語は「ナレーション的」、ヘブライ語は「(ドラマ等の)セリフ的」というイメージということのようです。

(ちなみに、実は日本語も本来、この完了と未完了という2態だけで成り立っているのですが、これを扱うと本来の目的から外れるので、興味ある方でメールなどをいただければお伝えしたいと思います)

さて、いずれにしても、日本語訳も基本的に欧米の言語体系を経て、行われているので、表現は単純化されていると言って良いでしょう。

繰り返しになりますが、旧約聖書をお読みになる時、ぜひ、「もうすでに済んだこと、とっくに終わっていること」なのに「未完了態」だったり、「これから将来起きること」を「完了態」で表現されていることを意識して、時折、「この動詞は、完了、未完了のどっちなんだろう」ということを考えながら読むだけでも、より「奥行き」を感じることができるでしょう。

或いは譬えて言うなら、「あたかも考古学者が、地中に眠っていたのを掘り起こして陳列したような翻訳文から受けるイメージ以上に、実際は、もっと躍動的に、その当時から、現代、そして将来に至る時の流れや、継続的な動きを秘めているのです。

若しくは別の例えとして、出来事を収めた写真を何枚も並べて、情報を得るのに比べて、動画は、僅かな瞬間の合致やすれ違いの詳細から、全体の流れのうねりのようなものを捉えやすいことの違いに准えることができるかもしれません。

古代ヘブライ語の特徴が、更に解明されて、より的確に訳されるなら、より深く「奥行きの深い」理解や、ダイナミックな洞察ができるに違いありません。

幾世紀にもわたって,学者たちは,過去の出来事を未完了態の動詞を用いて表わし,将来の出来事を完了態の動詞を用いて表わすヘブライ語の表現力に当惑させられ,この特異性を説明しようとして,「ワウ継続法」という説を打ち立てました。

(これをここで扱うと、更に専門的な分野に突入しますので、関心のある方は「ワウ継続法」という語で検索してお調べになってください。)

この「ワウ継続法」という説について,O・L・バーネス著,「A New Approach to the Problem of the Hebrew Tenses and Its Solution Without Recourse to Waw-Consecutive, Oxford (1965)」
〔ヘブライ語の時制の問題に対する新たな研究,およびワウ継続法によらないその解決策〕(オックスフォード,1965年,4,5ページ)の中で次のように記しています。

"The matter has been needlessly complicated by the introduction and slavish adherence to the doctrine of Waw Consecutive. ・・・Very briefly, though there have been a variety of modifications of the theme, this states that the ‘and-Waw?’ appearing before the first of a series of consecutive Hebrew Verbs in the Imperfect Tense, if preceded by a Hebrew Verb in the Perfect Tense, indicates that all of them should be read or taken as Perfects (instead of what they really are: Imperfects)"

(上記の和訳)「この問題は、ワウ継続法・・の理論を導入し,これに固執することにより,不必要に複雑にされてきた。
非常に簡単に言えば、テーマにはさまざまな変更が加えられていますが、すなわち,一連の未完了時制のヘブライ語動詞の最初の動詞の前にある『ワウ ― そして』は,これに完了時制のヘブライ語動詞が先行している場合,これら一連の動詞すべてを(実際のもの,つまり未完了態にではなく)完了態に読む,もしくは取るべきであることを示しています。」(ここまで)

この「ワウ継続法」理論も紆余曲折があり、今日に至っていますが、例外とみなすべき場合も少なからずあり、完全に確立しているわけではなく、依然論争があるようです。

語順や接続詞によって、動詞の時制が逆転してしまうという理論には、今ひとつ合点が行かない気がしています。

ともかく、筆者が、個々の動詞を「完了態」で記しているのか「未完了態」で記しているのか、読者には全く分からない状態になっていて、それで万事OKというのが、私にとってはどうも気に食わない。

ともかく、聖書を記した人は、何らかの理由があって、完了か未完了かを書き分けているわけですから、或いは「聖書全体は神の霊感を受けたもの」という聖書記述の観点に立って考えるなら、神はその文体や表現を導き、是認しておられると言えるわけですから、翻訳によってその違いが無視されたままというのは、必ずしも何も問題ないとは言い難いのではないでしょうか。

確かに、過去の出来事は全部過去形で統一して言い切ったほうが文体としてはスッキリするでしょうが、表現とはそれほど単純なものではないでしょう。

全然別次元の例ですが、否定の否定という文体があります。

「少なくない」「分からなくはない」など。これを「多い」「分かる」としたのでは、執筆者の意図したニュアンスは伝わらないでしょう。

冒頭に示した例のように、例えば、神の休みに関して、
「・・へ~、これって〔未完了態〕で記されているのか・・」と、いう意識で読むなら、「・・ということは? ・・もしかして、何かがまだその後も続いた? ひょっとして、今なお継続している要素が含まれているのか?・・」などという発想が起きる可能性があるわけですが、全て過去形で訳されているものを読んでいる限り、単なる過去の出来事としてしか思いに留まらないでしょう。

そうした読者の理知的な働きを一切排除してしまうような聖書翻訳に関する現行の在り様は果たして、聖書の霊感の源であられる、つまり聖書の著者である神の本当に意図するところなのでしょうか。

すくなくとも、原文では「未完了態」として記されている動詞には、それと分かるマークを付したような聖書翻訳があってもいいように思いますが。

さて、「創世記の明示的翻訳」という著作には、このヘブライ語の未完了態の基本的な特徴について、つぎのように述べています。

“The fundamental characteristic of all imperfects is incompleteness. . . . The incompleteness of these imperfects, when they are in the indicative mood, appears either in a progressive form or a frequentative form. The context is relied upon to indicate one or the other, for the structure of the verb is the same in both cases."
“If the context indicates a single act or state, the force is progressive. The action is pictured in the process of development. In such case the primary idea of the verb in English is not sufficient to convey its full meaning."
ー[A Distinctive Translation of Genesis, Grand Rapids, Michigan (1963)]

(上記の和訳)「すべての未完了態の基本的特徴は(行為が)完結していないことにある。……直接法の場合,これら未完了態の行為が完結していないことは進行形もしくは反復形のいずれかに表われる。
そのどちらであるかは文脈に依存する。というのは,動詞句の構造はいずれの場合も同じだからである。

「文脈が単一の行動もしくは状態を示しているなら,それに伴う力は進行段階にある。その行為は進展途上のものとして描かれている。このような場合,英語の動詞の主要概念だけでは,その意味を完全に伝えるには不十分である。」(ここまで)

この説明だけでは分かりにくいので、これを例証する翻訳をいくつか挙げてみましょう。

創世記 1:3-8の部分を、「アメリカ標準訳(英語)」(この中の本来〔未完了態〕となっている動詞には、〔未〕を付しておきます)

そしてその下に「口語訳(日本語)」からの引用。と

さらに「未完了態」を反映した「Benjamin Wills Newton」「James Washington Watts」([]は著者自身によるもの)両氏の翻訳を並べてみました。これらを比較してみてください。
この両者の訳には、(幾分直訳的な)和訳を付けておきます。

創世記1:3
ASV アメリカ標準訳:
And God said〔未〕, Let there be〔未〕 light: and there was〔未〕 light.
口語: 神は「光あれ」と言われた。すると光があった。

B.W.N:
And God proceeded to say [future], Let Light become to be, and Light proceeded to become to be [future].
 それから神は言いはじめられた[未来],光が生じるように。すると光があるようになった[未来]。

J.W.W:
Afterward God proceeded to say, “Let there be light”; and gradually light came into existence.
 その後神は言はじめられた,「光があるように」。すると光が徐々に存在するようになった。

創世記1:4
ASV:
And God saw〔未〕 the light, that it was good: and God divided〔未〕 the light from the darkness.
口語:
神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。

B.W.N:
And God proceeded to view [future] the Light, that it [was] good; and God proceeded to divide [future] between the Light and the darkness;
 それから神は光をご覧になりはじめた[未来]が,それは良[かった]。それから神は光と闇を分けていかれた[未来]。

J.W.W
Also God proceeded to observe the light, [seeing] that it was good; so he proceeded to divide the light and the darkness.
 それから神は光を観察するようになり,それが良いのを[ご覧になった]。そこで光と闇を分けていかれた。

創世記1:5
ASV:
And God called〔未〕 the light Day, and the darkness he called Night. And there was〔未〕 evening and there was〔未〕 morning, one Day.

口語:
神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。

B.W.N: and God proceeded to call [future] the light Day, and the darkness He called [not “proceeded to call”; the past tense is used] Night; and evening proceeded to be [future], and morning proceeded to be [future] Day one.
 それから神は光を昼と呼ぶことにし[未来],闇のほうは“夜”と呼んだ[「呼ぶことにした」ではない: 過去時制が用いられている]。こうして夕となり[未来],そして朝となった[未来]。一日目である。

※(ここでとても興味深いのは、光を昼と「呼んだ」のは「未完了態」で、夜と「呼んだ」のは「完了態」であるということです。
毎日、繰り返される[Day & Night]なのに、なぜか、昼は昼と呼ばれ続け、厳密には、闇を夜と呼んだのは過去1度きりということになります。何か意味深な感じがします。)

J.W.W
 Then God began to call the light Day, and the darkness he called Night. Thus there came to be an evening and a morning, even one day.
 
そうして神は光を“昼”と呼ぶことにし,闇のほうを“夜”と呼ばれた。こうして夕となり,朝となった。一日目である。

創世記1:6
ASV:
And God said〔未〕, Let there be〔未〕 a firmament in the midst of the waters, and let〔未〕 it divide the waters from the waters.
口語:
神はまた言われた、「水の間におおぞらがあって、水と水とを分けよ」。

B.W.N:
And God proceeded to say [future] Let there become a firmament in the midst of the waters, and let it become divisive between waters and waters.
 それから神は言いはじめられた[未来],水のただ中に天空が生じ,水と水との間を区別するものとなるように。

J.W.W
Then God continued, saying, “Let there be an expanse in the midst of the waters, also let there be a separation between the waters.”
 さらに神は続けてこう言われた,「水のただ中に大空が生じ,水と水との間に別れが生じるように」

創世記1:7
ASV:
And God made〔未〕 the firmament, and divided〔未〕 the waters which were under the firmament from the waters which were above the firmament: and it was〔未〕 so.
口語: そのようになった。神はおおぞらを造って、おおぞらの下の水とおおぞらの上の水とを分けられた。

B.W.N:
And God proceeded to make [future] the firmament, and proceeded to divide [future] between the waters which [are] below in relation to the firmament and the waters which [are] above in relation to the firmament;
 それから神は天空を造ることにされ[未来],天空より下に[ある]水と天空より上に[ある]水とを分けてゆかれた[未来]。

J.W.W
Accordingly, God proceeded to divide the waters which were under the expanse from the waters which were above the expanse; and gradually it came to be so.
 そこで神は大空の下の水と大空の上の水とを分けてゆかれた。すると次第にそのようになった。


創世記1:8
ASV: And God called〔未〕 the firmament Heaven. And there was〔未〕 evening and there was〔未〕 morning, a second day.
口語: 神はそのおおぞらを天と名づけられた。夕となり、また朝となった。第二日である。

B.W.N:
and God proceeded to call [future] the firmament Heavens; and evening proceeded to become [future] and morning proceeded to become [future] Day second.
 それから神は天空を天と呼ぶことにされ[未来],こうして夕また朝があり,二日目となった[未来]。

J.W.W
Thereafter God began to call the expanse Heavens. Thus there came to be an evening and a morning, a second day.
 その後神は大空を天と呼ぶことにされた。こうして夕となり,朝となった。二日目である。

それぞれの口語訳と、B.W.N: 、B.W.N: の和訳を読み比べて、いかがですか。

ヨーロッパ言語系の口語訳に比べて、ヘブライ語の表現の違いを、ナレーションとセリフ、或いは多数の静止画と動画の違いのようだと評した理由がおわかりになっていただけると思います。

最後に、わたしがヘブライ語のこの「未完了態」を深く調べてみたいと思ったきっかけに付いて触れておきたいと思います。

それは、次の一文を読んでいた時です。

「女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。」創世記3:6

なぜ、アダムはエバを止めなかったのか!?
食べるどころか触ってもいけないと言われているのに、なぜ、二人してその木の前にいるのか?

記述の中には、アダムが、その実を見てどう感じたとか、その経緯に関するアダムの行動も思考に付いても一切何も記されていません。
ただ、渡されて食べたという記録だけです。
なぜ、すんなり受け取って、食べたのか。あまりにも謎が多い。

そこで、その記されていない経緯を探るべく、取り組んだのが、「未完了」動詞です。

まず注目したいのが、実にそっけなく過去形で記されている「食べた」という語(ヘ語:アッハル)ですが、これはエバの場合もアダムの場合も「未完了態」です。

「すべての未完了態の基本的特徴は(行為が)完結していないことにあり、進行形もしくは反復形のいずれかに表われる。」という説明を思い出してください。

「反復形?」
もしかすると、2人共、一口かじって終わり、ではなかった?(かもしれない)

以下は私の想像というか、妄想です。しかし、何の根拠もない勝手な空想ではなく、「継続、反復であるなら考えられる」範疇での妄想です。

サタンにそそのかされたエバは、好奇心に負けて、一人で出ていって禁じられていた木とその実を眺めます。
が、怖くなってそそくさと帰ります。

しかし、また別の日に出かけ、今度は、もっと近くで、しげしげと見つめ、あれこれと想像し、もし食べたら本当はどうなるのだろうなどと、良からぬ思いを膨らませつつ帰ります。

更に別の日、とうとう誘惑に負け、何と、怖ごわ匂いを嗅いだり、なでたりしてみます。

「あれ、触っても死なないじゃん。 どこも痛くもないし、何事も起こらない?。
蛇が言ってた、食べても死なないというのは本当かも知れない。一口くらいなら大丈夫かも知れない。」

と、ついに、かじってしまいます。そして、何が起きるのか、自分自身を見守ります。
すぐにどうってことはないことを悟ります。やっぱり一口くらいじゃ、神のようにはならないのかも知れない。・・

明くる日、更に大胆になり、まるまる1個を食べてしまいます。そして、次の日も・・・ これが「反復形」の表記の意味するところだとしたら。

そうです。エバは、つい出来心でちょっとだけ食べてしまったと言うようなものではなく、なんと常習犯だった可能性が捜査線上に浮かび上がったのです。

そしてある日、「ねぇ アダムぅ わたし あれ、もう何個も食べてるけど、ほら、だいじょぶみたい。
そして、前より賢くなったような気がする。あなたも食べてみない?!。
ほらっ 私を見て! 死んだりしない証拠でしょ。」

そして二人揃って、木の前に立ち、エバが取って与えた実をアダムは受け取ります。
そうして、二人とも「善悪の知識」の実を「食べるようになっていた」のです。(継続)

改めて3-6節を引用して、この中の「未完了態」となっている動詞を【 】で括ってみました。

「女がその木を【見る】と、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を【取って】【食べ】、また共にいた夫にも【与えた】ので、彼も【食べた】。
すると、ふたりの目が【開け】、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉を【つづり合わせて】、腰に【巻いた】。
彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を【聞いた】。そこで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を【隠した】。」創世記3:7-9

ここから分かるのは 、女は、その木を一度ならず【見】実を【取り】【食べ】、夫に【与え】、夫も【食べた】

二人の目はそれ以降【開かれたまま】、いちじくの葉を【合わせ】【身にまとう】ことが日課になっていた。
二人は神の歩まれる音を一度ならず【聞き】、その都度身を【隠し】ていた。ということです。

「腰覆い」のためのハンドメイド クラフトの継続作業や、「日の涼しい風の吹くころ」という表現から、この一連の出来事は、その開始から、神からの事情聴取までには、季節が巡ってそれなりの日数が流れていたと推測できます。

「未完了態」に注目するなら、ここまで「解る」と言いませんが、少なくとも「考えられる」ということです。


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