ロストバード。
「フンフーン♪」
俺は鼻歌を歌いながら素麺を湯掻く。
こんなにもご機嫌なのは、そろそろ愛しの彼女である優月が仕事から帰ってくるからだ。
交際を始めたのは高校生の時。
就職した後は将来の為に同棲を始めた。
基本、夕食は早く帰ってきた方が作るのだが。
仕事の出来る優月は若くして様々なプロジェクトを任されており、帰宅が遅くなることがしばしばある。
そして夕食が完成に近付いていると、ドアの開く音がした。
「あ、優月おかえりー。」
俺は手を拭くと、優月の方へと歩みを進める。
いつもハグをして出迎えるのが日課なのだが。
「………。」
優月は口を尖らせて応えてくれない。
あ〜、ヤバい。これは……。
「イー!!!」
鞄を俺に放り投げるとスタスタと家の中に入ってしまった。
そして、着替えることもせずにそのままソファーに倒れ込むとクッションに顔を埋める。
俺は鞄を拾うと中から弁当箱だけ取り出し、優月の傍に座る。
「おかえり、優月。」
髪を撫でながら俺は優しく呟く。
「うるたーい!」
優月は手を振りほどく。
そして、クッションを俺に投げつける。
仕事中は、その容量の良さや言いたいことをキッパリと言う性格もあってか、同僚から全幅の信頼を置かれているらしいが。
家では普段から甘えん坊気質なうえに、このようにストレスを限界まで溜め込んだ時には、驚く程に幼児退行をしてしまう。
本人は、その口調を「ゆぴ語」と呼んでいるが、落ち着くまでは根気強く付き合ってやらなければならない。
もちろん、ここまで自分を追い込むまで頑張っている優月を支えてやりたいと思っているので、迷惑だと思ったことは一度もない。
「優月、とりあえず着替えよ。」
「脱がせて!」
「はいはい。じゃあおいで。」
「ん!」
俺は一枚ずつ優月のスーツを脱がせていく。
下着姿になったところで、優月が抱きついてきた。
「うわ、ちょ!」
「つたれた!」
「そっかそっか、毎日お疲れ様。」
また髪を撫でながら、抱き締め返す。
「ゆつたんもうでちない!お仕事行きたくない!」
「そっか、辛かったな。おーよしよし。」
「ふぇーん!」
優月は足をバタバタさせながら泣き始める。
さすがに夏とはいえクーラーの効いた部屋で下着姿なのは風邪を引いてしまうので、優月を部屋着に着替えさせる。
「ご飯食べる?」
「いらない!」
「じゃあ、落ち着いたら一緒に食べような。今日はどうしたの?」
泣き止む気配がないので、俺は優月に優しく問い掛ける。
「ゆつたんじゃ今回のお仕事でちないの。皆はね、ゆつたんのことすごいすごいってほめてくれるけどね、ゆつたんはね、でちるか不安でね、それでね…」
なるほど、要するに今回は同僚からの信頼が優月のプレッシャーとなってのしかかってきたのか。
「そっかそっか、毎日しんどいよな。でも、優月なら大丈夫。でちるよ。」
「でちない!」
「うんうん、大丈夫大丈夫。優月ならでちるよ。よしよし。」
「ううう……」
「ほら、鼻水出てる。はい、ズピーして。」
優月は昔からそうだ。
いつも皆の先頭に立って、大人たちからも信頼されていて。
それと同時にどうしようもないプレッシャーと常に闘っている。
いつか、優月がこぼしたことがある。
"与えてもらった役割を全うすることでしか、自分はここにいられない気がする"
毎日毎日、溜息や涙にすらなれなかった感情が募っていくのだろう。
それは、名前すら付けられない、自分も気が付かないくらいの悪魔だ。
その悪魔に、俺が羽根をあげられるなら。
優月の心に、逃げ道を作ってあげられるなら。
俺はいつだって、優月のそばにいる。
鼻をかみ終えた優月は、座り込んだまま俺の方を向く。
「○○、いつもごめんね。こんな私で本当にごめんね。迷惑ばっかりかけてごめんね。」
また、優月は泣きそうな顔でこっちを見る。
俺は、また優月を抱き寄せる。
「バカ、俺に言うのはそれじゃないだろ。」
「…ありがとう、○○。私、頑張るね!」
「うし、じゃあ一緒にご飯食べよっか!」
「うん!おなかついたー!」
たとえ優月が広すぎる空で迷子になったって。
俺が必ず優月の事を見つけ出す。
そして、優月がいつまでも勇敢な雲を渡っていられますように。
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