見出し画像

『よいものをより安く』からの解放が、地方活性の第一歩

『よいものをより安く』。一見、素晴らしい言葉に聞こえますが、これが、地方が発展しない最大要因でもあります。

その理屈は、下記の記事や

その中で触れられているこの記事にくわしいですが

結局のところ、1番目の木下さんの記事にあるとおり

都市部に向けて出していく商品サービスを安くうってしまう→地元の所得は低くなるという構造になる
さらに地元客を相手にする地元サービス産業もその低い所得に沿ったものしかできない→結果地元向け商売の人たちの所得も低くなる、という悪循環が起きる

というのが、全てです。はっきりいって、地方が稼いでいくためには、「高付加価値、高価格帯の域外向け商品」の経済と、「日常品の経済」を、完全に分けて考える必要があります。そして、利益を稼げる高付加価値商品を販売し、それを給料所得として分配し、地域内の平均所得が上がれば、域内経済の付加価値も向上していく。このルートしかありません。

実際、私も、これまで600円で販売していた当社のあま酒を、原料や製法など見直し、現在1000円にして首都圏百貨店中心に販売しています。もちろんそれだけ品質を上げました。正直、1000円はあま酒にしては高いですし、初詣などの大量需要については基本お断りをしている(そもそも値段が合わない)ことで、生産量としては減っていますが、部門としての利益率、利益額ともに向上しています。

とはいうものの、なぜ、地方でこのような動きがしにくいのか、私自身の経験も踏まえると、4つに分類できると思います。

1.『よいものをより安く』という信仰

まず大きいのが、そもそも『よいものをより安く』というのを人間の道徳だと捉えている経営者が多いということです。『よいものをより安く』は、ただの戦略オプションで、『人の道』なんかじゃありません。

戦後、貧しく、物不足だった時。人口がどんどん増えていって、とにかくものを供給しなければいけない時代には、『よいものをより安く』が社会的にも求められました。そういう時代だったのです。どんどん人口が増えるから、安くしてもたくさん売れるし、それでも売る量、造る量が追いつかないから、物価だって上がっていく。そして、たくさんモノを作るために、工場を大きくして、たくさん人を雇う、そういう経済でした。

ですが、ある程度ものが行き渡ると、供給が過剰になります。ここで『よいものをより安く』をやると、当然ながら、物価がどんどん下がるデフレになります。だって、モノもモノを作る能力も余ってるわけですから。

その中で、『よいものをより安く、たくさん作って会社を大きくし人を雇う』ということにより『社会的責任を果たしている』という信念は、まるで、戦略オプションを超えて『道徳』になってしまいました。

『人とすれ違ったらちゃんと挨拶をする』『靴が乱れていたら片付ける』『横断報道が渡れなくて困っている老人がいたら助ける』『親切にされたら御礼を言う』と同じぐらいのレベルで『よいモノを仕入れてより安く売る』ということを『道徳』や『志』と捉えている人が多い。これは、様々な経営者団体などの経営者セミナーで、そういう教育がされてきたというのもあるでしょう。

当社でも、いくつかのスーパーさんから取引の依頼がありましたが、『よいモノをよりお値打ちにと言う志は同じだと思います!』と、一点の曇りも無く、それが『正しい』ことだと信じ、それが経営者の共通の『志』だと信じているスーパー経営者さんと交渉の席に着いたこともあり、『よいものをより安く』志向の根の深さを感じました。

その象徴がいわゆるスーパーです。業界トップのイオンの利益率がほぼ0%という記事が出たことがあります。

もう、業界トップがほぼ0%の利益しかない流通システム組んじゃってると、儲けるの、無理なんですよね。業界トップが作り上げたビジネスの仕組みや慣習、相場観が天井を造ってしまうので、トップで利益率0%だと、スーパーは儲からない商売で固定されちゃうんですよね。

歴史的には、戦後に出来た地元スーパーや地元食品製造企業などは、企業理念や、企業ビジョンとして『よいものをより安く』と言うことを掲げていたりします。単なる戦略オプションであれば、戦略をピボットすることが出来ます。

しかし、『道徳』、あるいは『企業理念』にまでなってしまっていると、これは、アイデンティティにも関わる話なので、相当に難しくなります。もちろん、地域のために、地域の所得に応じ、それなりの品を生産供給していくことは、とても重要なことです。地域経済の太さは、やはり、域内生産と域内消費に依存します。

ですが、それでは、『域外の外貨を獲得』することは出来ないのです。そこは、別の発想が必要なのです。

2.関係者の心情的理解が得にくい

1の話は経営者目線ですが、2つめが関係者の理解が得にくいというのがあります。1個100円でリンゴを売っていたとして、いくら理屈があるからとはいえ、1個1000円のリンゴだと、間違いなく、絶対気軽には変えなくなりますよね。

『よいものをより安く』から脱出して適正価格を値付けするようになると、これまで、従業員や出入り業者さんと、和気藹々気軽に互いの商品を交換したり、買いあったり、家族や親戚、友達などに進めたり、自分で買ってて土産にしたり、ということがやりにくくなります。

これは、今まで、『よいものをより安く』の価格帯で慣れ親しみ、愛着を持って、商品をみんなで消費していれば消費しているほど、『気軽に買ったり出来る商品ではなくなる』ことへの抵抗感は増していきます。そこには、『簡単に手が届かない商品になる』ということへの寂しさもあるでしょうし、真面目な人ほど、『そんな値段を取っていいのか』という疑問や罪悪感みたいなものもあると思います。

製造者でなくても、小売店やスーパーでも、「今まで通り、気軽に買い物が出来るお店でありたい」と思っているほど、「なんでそんな高い金出さないと、ものが買えない店にしなきゃあかんのよ」と言うことになります。

そのため、内部において、『そんな値段では買えない』『そんな値段にする必要があるのか』という反対の声が高まることになります。

これを脱出するには、特別注文用紙などを造って、製造業であれば従業員や出入り業者さんには従業員価格や関係者価格で販売するルートを用意する。地元にしか流通しない低価格商品を、別ブランドで、数量をコントロールして販売するという方法があります。

ですが、地域の経営者としての本筋は、きちんと事業として利益を出して、すなわち、首都圏や場合によっては海外から収入を獲得して、それを所得として分配して、地域の人も高価格帯商品を購入できる経済力に、地元を引き上げていくことではないでしょうか。

3.高い値段でも売れる商品にする方法が分らない

次の課題は、高い値段でも売れる商品にする方法が分らない、ということです。

何でもかんでも、闇雲に値上げすれば良いのではありません。当然ながら、1万円のリンゴなら、1万円出すだけの理由や根拠、魅力が打ち出されており、そして実際に「1万円分の価値」を感じなければ、リピート需要は生まれません。

要するに「その値段を出す人のツボ」を刺激することができない、刺激したことないし、身近にいないからわからない、ということ。

私も、地元の友達と京都に団体で旅行したことがありますが、そのとき、ブランドショコラティエで妻にお土産にカカオ365というブランドのチョコレートを買っていきました。子供たちが生まれる前だったので、2個で1000円というチョコでしたが、家に帰って妻と二人で仲良く1個ずつ食べましたが、同行した友人から「チョコレートに1000円も出すの?」と言われました。

価値観は人それぞれと思いますが、「ツボ」を刺激するためには、やはり自分で買ってみると、正直、それなりに値が張る買い物だし、目が肥えてくるようになります。実際に買うと、包装紙とか、包装箱の設えや、パンフレットなどの同梱物、そしてなにより、商品自体のクオリティと、分ることも多いのですが、店のたたずまいやカタログなど見るだけでも、かなりのことが勉強できます。

そして、勉強と書きましたが、当然、それを勉強と思わずやれると強いです。そして、こういう「高所得」「高価格消費」「自分へのご褒美」を普段からし感度が高い人となると、すなわち、女性です。ここを雇用として重視することには、地域の雇用活用、男女共同参画実現に繋がる可能性も大きくあるのではないでしょうか。

また、分らなければ、ぶっちゃけ聞くことです。「展示会」「商談会」などでプロのバイヤーの意見を聞く、ビザスクなどインタビューサービスを使う、(ただし、プロへの相談は相手の得意とする価格帯を見極めないとだめです。流通や商社でも、イオンなどのGMSが中心の人に聞いたら逆のアドバイスになります。)あるいは、実際に消費者を集めてのインタビュー、

そして、「地元にいる、海外や東京でそこそこ稼いで、海外や東京で消費生活をした経験があったうえで、実家を継ぐなり、結婚するなりで戻ってきた人」などを活用すると、良い洞察をえることが出来ます。

4.雰囲気を売ることに罪悪感がある

最後、これはブランディングの基本概念です。そして、製造業が強いまちの人に多い感覚ですが、「そもそも、数値評価されないモノに値段をつけることに罪悪感」を感てしまうケースです。

ブランディングの基本的な概念に「機能的価値」と「情緒的価値」という概念があります。詳しい説明は、様々なサイトで言及されているので詳細は省きますが、「機能的価値」とはスペックそのもので、「情緒的価値」とはその商品を持つことでの心理的な価値と思ってください。

時計で言えば「正確に時を刻める」「電池が長持ちする」といったことが機能的価値、それに対して「持っていることで誇りを感じる」みたいなのは情緒的価値といえるでしょう。

情緒的価値が高いと、機能的価値に劣っていても、高価格で売れることが出来ます。例えば、100万円以上するスイス製の手巻き時計と、1万円以下で買えるスポーツウォッチを比べてみましょう。手巻き時計の方が、はっきり言って、「機能的価値」では劣ります。いちいち手で巻くより、電池入れておけば何年もそのまま気にしなくていい方が圧倒的に「役に立つ価値」は高いです。また、精密な工芸装飾があるほど、防水性や耐久性は往々にして犠牲になっています。生活防水どころか、プールで遊ぶときも外さなくていい方が、あきらかに「機能としては上」ですよね。

でも、手巻き時計の方が高い。それはなぜでしょうか?

同じように、車も、外国高級車って大体直ぐエンジントラブルが起きるイメージがあります。実際そうかはともかく、そういうイメージはあります。そして部品も直ぐには届かない。また、燃費もECOカーに比べてかなり割高ですし、そもそもデザイン的にトランクが小さくてモノも運びにくい。

車としての機能、「より安い燃費で、より多くの人や荷物がのって、より壊れにくく壊れたとしても部品入手が容易」からいけば、対極にあります。ちろん高級車なりのエンジンだったりは積んでいたりしますが、それ、近所のスーパーに買い物に行ったり、こどもの部活のお迎えしたりに必要ですか?と言う話です。

そんな車が、なぜ、何千万円、時に下手したら億円単位になるのでしょうか?

何千万、何億円の価格さを「機能的価値」だけでつけようとしたら大変です。おそらく、ガソリン1リットルで地球一周できるとか、時速80キロでコンクリート壁にぶつかっても壊れず安全とか、そのレベルにしないと、「車そのものの価値」だけで何千万円ということにはならないと思います。

ただ、製造業、それも機械や自動車産業の下請けだったり、相手方もスペックで判断する製造業だったり、主な買い手が直接消費者で無く、大手流通や問屋が相手、つまりBtoBに慣れていると、「品質規格にどうやって適合するか」という頭がクセになり、どうしても、「数字で計測できること」を基準にした値付け、いわば「根拠のある値付け」が思考の習慣になってしまいます。

でも、それって「値付け」してないんですよね。「自分はこの値段で売りたい」ということでなく、「このスペックならこの値段です」と相手に判定をしてもらってるだけなのです。

「数字で計測できること」を基準に判断しない値付け。それはすなわち、自分の意思を込めた値付け、「この車は1億円で売れるべきなんだ」「ラーメンが一杯5000円してもいいじゃないか」という、

「自分がそもそもどの価格帯で勝負したいのかを先に決めること」これに、域外向け商品の開発者が、心理的になれていくことが、地域外から収入を獲得し、地域活性化にとって重要なことなのではないでしょうか。

最後までご覧いただきありがとうございました。 私のプロフィールについては、詳しくはこちらをご覧ください。 https://note.com/ymurai_koji/n/nc5a926632683