『渚』
『ここは山ばかりだから。あなたの名前は渚にしようって思ったのよ。』
ここには無いもの
山に囲まれた土地に私は産まれた。
私の母は海の近くに生まれ育った人で、父は山を見て育った人だ。
母は父と結婚し、祖父や祖母、父の弟が暮らす家に暮らすことになった。
ここに住むなんて聞いてなかったのよーっていつだったか笑って話してくれたことを覚えている。
若い頃の母の姿を想像してみる。
電車の音は聞こえるけど波の音は聞こえない台所で家族のご飯を作っている後ろ姿。
土の匂いはするけど潮風の香りが届かないベランダでたくさんの洗濯物を干していた横顔。
同居のドの字も考えなかった私には母の覚悟や強さは計りしれないんだろう。
『ここに無いものにしたかったんよ。あんたの名前。』
命名
寒い日曜日の朝だった。私が産まれたと連絡を受けた父と祖母はすぐに病院に向かったらしい。
母と私の2人が待つ病院に向かう車の中で、私の名前は決まったという。
父と祖母がある言葉に目をつけたことが始まりだった。きっと周りが誰も追いつけないくらい父と祖母はその言葉の魅力について話合い盛り上がり、なんの障害もなく私の名前がそれに決まったことが安易に想像できた。
それほどまでに母が暮らし始めた家はその時、
母の家ではなかったんだと思う。
私は『渚』にはならなかった。
『渚』という言葉
祖父も祖母も他界した今、父と2人でしっかり実家を守ってくれている母。
私が里帰りしたときには、土の匂いがたっぷりついた大根や白菜を、持って帰りなぁと持たせてくれる。
私が結婚し、暮らしている場所は電車の音が聞こえない場所だ。
ここに来てすぐの頃、そのことがとてつもなく寂しい時があった。
母がこの言葉を大事にした理由が解る。
そして、その言葉にいつまでも固執しなかった理由も解るところまで、私は母に近づいてきているようだ。
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