安全と安心は別物だからね・・・。ちゃんと考えないと。


安全と安心は、考えなしにごっちゃにすると、その行動や判断に支障が出る(混乱する)可能性があるんです。

一般的にイメージされ、使われている言葉としての安全と安心については、間接的に、しかも強く影響しあうようなものなのですが、話をわかりやすくするために少々強引に割り切って書いておきます。

〇安全は安心の判断材料であるが、安心は安全の材料ではない。
〇安心は主観で、安全は客観である。
〇安心は心理現象で、安全は具体的資材や行動基準によって形成される。
〇人間の行動は、安全よりも安心により大きく影響される。
〇安全にも安心にも絶対はない。

人間は安全よりも安心を求めている(心惹かれる)よなと。
その意味に限定すれば安全というのはあくまで安心の材料なわけです。

過去に屋外レジャーにおける安全と安心という形で、あくまでレジャーにおける能動的選択下で発生する場合として書いたものですが、これが津波や地震のような災害においてはその解釈や対応は変わってくるものです。

地震のような大きな自然災害に遭遇、被災した場合、安全も安心も確保できない状況に陥ります。被災者というのはその行動の選択において様々な制約を受けるわけで、安心や安全についても限りなく受動的な立場になるしかありません。

特に事故や災害の後、安全に関する公式発表をする場合、何らかの明確な基準に則って安全程度の判断を下すことになるわけですが、その基準が不明確、あるいは理解不能、基準自体の設定や信頼性に疑問がある場合、あるいはその安全を発表する組織自体への信頼性に疑問や不信がある場合などは、全く安心というものに寄与しないばかりか、安全であるという発表自体が安心を損なう方向に向いてしまうこともあるわけです。

心理的な現象であるがゆえに、ここでの対応を間違えてしまうと安心に必要な条件であるはずの信頼性が致命的に失われてしまうため、この後の安心へのハードルは限りなく高くなります。(状況によっては不可能になるといってもよいでしょう)

安心というのは直接的な経済利益を生まないかもしれませんが、それ以上の大きなメリットは十分にあるはずなんです。なぜならば安全よりも安心のほうが人間の行動には強い影響を与えるからです。

たとえば、これが災害などでない商業的な製品やプログラムの場合。安全をひたすら謳ってセールスポイント化する。そこに内容が伴っていれば、これは利用者に安全安心を提供しているということになります。ただ、安全を理解しないまま、あるいは、しっかり安全を考察せず、あるいは、悪意のもと(あるいは気付くことなく結果的に欠陥がある)に行えば、安全などの用意も意思もないままでも安心感さえ演出出来ればそれでOKという可能性もあるかもしれません。

現実的、あるいは実効性のある安全策の実施は間違いなく欠かせないものでありますが、安心感が伴わなければ、実効性のある安全策でさえも懐疑的に見られたりあるいは活用されない可能性もあるわけです。

安全について何らかのアクションを起こす場合、その効果を確かなものにするためには、心理的な安心感の確保にもしっかりと考慮して行動をする必要があるのです。

この記事、何年前に書いて寝かせてたんだろう。たぶん原発事故後に思いついて書いたものだから数年以上前なのかな・・・。
いまの社会状況見ると、これほんとに間違ってないし、その反省はあまり生かされてないし。と、強く思ったのであえてこのタイミングでの公開。



ちなみに安心って、もとは宗教の概念だったそうです。

そもそも安心とは安心立命(儒教において天命を知り、心を平安に保つことまたは、その身を天命に任せいつも落ち着いていること)を略したもので、禅宗では現在もこれを仏の教えにより恐怖や不安から解放されて悟りの境地に到達し、心の安らぎを得て主体性を確立することという意味で用いる。仏教では達磨が初めて用いたとされ、不安や恐怖の原因は自分の欲望に由来する煩悩にあることから、これらの境地を開くことは信心および信仰の証しとされた。

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