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忘れていた"beの読書"を取り戻す。|「ブックカバーチャレンジ」選書まとめ

先日、僕のところにも「7日間ブックカバーチャレンジ」の誘いが舞い込んできました。

「7日間ブックカバーチャレンジ」とは

「読書文化の普及に貢献するためのチャレンジで、参加方法は好きな本を1日1冊、7日間投稿する」だけ。ルールは以下の通りです。

①本についての説明はナシで表紙画像だけアップ
②その都度1人のFB友達を招待し、このチャレンジへの参加をお願いする。

すでに先日7日間の投稿を終えたのですが、個人的にはやって良かったなと思ってます。ルールをガン無視して(笑)毎回書評めいたコメントを長々と書くなかで、いろいろと思うところがあり。せっかくなので記事化してみた次第です。

* * * * *

学生時代の僕は、ほとんど誰とも会わず本ばかり読んでいました。

特に20歳のころはすごくて(酷くて)、たぶん年間で300冊近く読破したはずです。ことさら数に意味があるとは思いません。大半のことは忘れてしまいましたし。

でも、そのころの読書が自分の血肉になっていることは確かです。今でも迷ったときや傷ついたときに立ち返るのは、20歳前後に読んでいた小説や教養書だったりします。

そこでふと考えました。

社会人になってからも本はたくさん読んでいるはずなのに、かつてのように血肉になる感覚を持てないのはどうしてだろう?と。

それはたぶん、”beの読書”を忘れていたからなんだと思います。

読書にはきっと、「やり方」に資するものと、「あり方」に資するものがあって。これは本自体の種類というより、読書の”モード”と捉えたほうが良いかもしれません。

前者のほうがイメージは湧きやすくて、つまり本の内容を現実の行為(do)に役立てるための読書ですね。目の前の課題に対する解決策や方法論を最短距離で得たいときの読書がこれだと思います。薬で例えるなら、化学的に生成された西洋薬のようなイメージでしょうか。

一方後者は、自分の存在そのものに揺さぶりをかけたり、あるいは優しく肯定したりするような読書のことを指します。最短距離とは真逆で、遠回りしたり道草したりする中で自分と世界を関係づけ、自分の存在を自分なりに規定するような読書ともいえるかもしれません。即効性はないけれど、身体全体をじんわりと巡って癒やす漢方薬のようなイメージ。(伝わるかな?)

「やり方」と「あり方」は、切っても切れない関係です。

気構えや志といった、しかるべきあり方を身につけた人だからこそ美しい行為がなせるという見方もあれば、行為に熟達するにしたがって自身の内面が磨かれていくという側面もある。

大切なのはきっとdoとbeのバランスで、両者をバランス良く育てる読書が、血肉になる読書なんだと思います。

そういう意味でいうと、僕は社会人になってから小手先のテクニックに気を取られ、表面的な”doの読書”ばかりに拘泥していました。自分のあり方を内省するための読書を、長い間怠ってきたように思います。そんなふうだから、やる事なす事どこかちぐはぐでした。

今回の「ブックカバーチャレンジ」で選んだ本は、僕に”beの読書”の機会を与えてくれた作品たちです。

コロナで外の世界に出られない今だからこそ、スローなペースで自己を探索する"beの読書"に取り組んでみるのはいかがでしょうか? 

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# DAY1
『タイタンの妖女』(カート・ヴォネガット・ジュニア)

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皆さんどうか安心してください。

生きていることには、実は大した意味なんてありません。だから、安心して悩んだり失敗したりしてください。

時空と銀河を超越した盛大な茶番劇に、これまでどれほど勇気づけられたことか。学生のころから愛読している、人類愛に満ち溢れた一冊です。


# DAY2
『サルトル』(ドナルド・D・パルマー)

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19歳の僕は心底人生に絶望していた。
人生というか、自分自身に。

そんな僕をユーモアたっぷりに肯定してくれたのがヴォネガットだとしたら、サルトルはシニカルな物言いで僕を挑発し、勇気を与えてくれる存在だった。

サルトル曰く、僕らはみな人生という砂浜に遺棄された捨て荷だそうだ。恐れ慄くほどの自由の中に、僕らは打ち捨てられている。人生は無意味で、あるべき姿なんていうものは存在しない。一見するとそれはとても怖いことだけれど、だからこそ、一瞬一瞬の選択によって、いま・ここから自分自身を再創造していくことができる。自由と孤独を引き受け、「進行中の構築物」として自分の人生をデザインしていけばいい。

気楽に生きよ!と、愛情たっぷりに語りかけるヴォネガット。
自己責任のもと、自らの生を構築し続けよと叱咤するサルトル。

この二人のコントラストが、僕の人生観に大きな影響を与えたことは間違いない。


# DAY3
『はじめての編集』(菅付雅信)

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意識するしないに関わらず、僕らは毎日小さな選択を積み重ねている。

何を食べ、何を着て、どこでどんな人たちと、どう時間を過ごすのか。大胆に言うならば、これらの選択はすべて「編集」であって、僕らは日々自分の人生を編集しながら生きているといえます。

この考えは昨日のサルトルの思想とも通じるところがあって、つまり僕は人生を作品化することに関心があるんだなと、チャレンジ3日目にして改めて思い知りました(なんたるナルシシズム!)

本書に書かれているのは、編集のテクニック論ではなく、編集という行為の本質の部分だったりします。僕にとってこの本は、編集ライターの仕事に行き詰まったときにたびたび立ち返る、ホームグラウンドのような一冊です。


# DAY4
『「ザ・マネーゲーム」から脱出する法』
(ロバート・シャインフェルド)

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どんな問題も、それをつくり出したときの意識レベルでは解決できない。

アインシュタインが残したこの有名なフレーズは、お金にまつわる問題にも適用できると思います。

僕らは誰もが世界規模のマネーゲームに放り込まれたプレイヤーです。ゲームにはルールが付きものですが、ルールの枠の中でモノを見ている限り、決してゲームから脱出することはできないでしょう。脱出するためには、ルールの外に出る必要がある。

本書は刺激的な思想と戦略によって、お金に対する意識レベルを丸ごと変えてしまう一冊です。安易な言い方ですが、ちょっとスピリチュアルな要素が含まれているので、読む人を選ぶタイプの本かもしれません。


# DAY5
『NHK未来への提言 リサ・ランドール 異次元は存在する』
(リサ・ランドール/若田光一)

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何かに悩んでいるとき、人の視野はものすごく狭くなる。
自分の悩みが世界の一大事みたいに見えて、知らぬ間にどんどんエゴが膨らんでいく。

そんなときに役立つのが歴史や文学や哲学で、これらに触れることで人は自分を相対化し、自分のちっぽけさを確認することができる。自分自身がちっぽけなら、自分が抱える悩みなんてもっとちっぽけなものだ。

でも、もっとダイレクトにちっぽけさを認識するには、全然スケール感の違う世界に身を投じるのが手っ取り早い。具体的には、宇宙や異次元といったマクロな世界を眺めるのが良いと思う。

理論物理学者のリサ・ランドールによると、僕らの暮らす3次元世界は「膜」のようなものらしい。仮にその膜をシャワーカーテンだとしたら、僕らは存在はそのシャワーカーテンに付着した水滴のようなものだそうだ。で、その外側にあるシャワールーム全体が5次元世界であると。5次元世界は目には見えないけれど、僕らの世界に何らかの影響を与えているはずだという。

20歳のときにこのことを知ってから、僕は幾度となく自分のことを「水滴の一部」だと思い聞かせてやり過ごしてきた。皆さんにも、エゴをクールダウンさせるためのライフハックとしてこの方法を伝授したいと思う。


# DAY6
『リーダーになる人のたった1つの習慣 』(福島正伸) 

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僕はいつからか仕事を仕事だと思わなくなりました。

僕にとって仕事とは、ともに生きる人たちとの「思い出づくり」です。
思い出づくりなんて言うと、どこか軽薄で無責任に思われるかもしれません。でも、人生を素敵なメモリーで満たすこと以外に、生きている意味なんてあるのでしょうか?

そして単なる記憶が思い出に変わるために必要なのは、感動です。
相手を感動させ、ともに感動を分かち合うこと。

これが、人として誰かと一緒に働き暮らすことの意味であると、この本から教えられました。


# DAY7
『プレーンソング』(保坂和志)

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“何も起こらない小説”に出会ったのは、これが初めてだった。

なんてことのない日常が、淡々と描かれていく。伏線を匂わせる場面もなければ、当然ドンデン返しなんかもない。誰も消えないし、死なない。

ファンタジーやミステリーに慣れ親しんできた自分からすると、この平板さは衝撃的で、この本を読んでから保坂和志に深い興味を持つようになった。大学2年生のころだった。

程なくして、彼の小説観に関する記述を別著で発見することになる。

小説というのは読んでいる時間の中にしかない。読みながらいろいろなことを感じたり、思い出したりするものが小説であって、感じたり思い出したりするものは、その作品に書かれていることから離れたものも含む。つまり、読み手の実人生のいろいろなところと響き合うのが小説で、そのために作者は細部に力を注ぐ。
『書きあぐねている人のための小説入門』

保坂にとっては、いわば小説は読者自身を映し出す鏡のようなものであって、そこに華美な装飾などは必要ないのだ。大事なのは、小説を読むプロセス自体であり、そこで起こる自分の心の動きそのものなのである。

この考えをさらに押し広げると、人生も”生きている時間そのもの”の中にだけ存在すると言えるかもしれない。つまり、「いま・ここ」が、人生そのものなのだ。

だとしたら、できる限りいま・ここをハッピーにするための方便をたくさん持っていたほうが良い。僕にとって読書は、あらゆる角度からその方便を探すための営みなんだと思う。


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