教室英語は、水に入らない水泳

「授業名人」といわれる中学校の英語の先生の授業を、テレビで見たことがある。

なるほど、生徒思いで、授業に工夫をこらす素晴らしい先生だった。だが、私は憂鬱になった。

なにが憂鬱か?

それは、ほとんどの生徒が、けっきょく「英語ができる」ようにはならないだろうと、画像から感じたからだ。うまい授業、まずい授業はあっても、「できるようになるかどうか」という角度からみれば、現状では、どの授業も大差ないだろうとさえ思える。

熱心な先生、授業がうまい先生にあたれば、英語が好きになったり、成績があがったりするだろう。そういう意味では、授業の改善は生徒にとって大きな意味がある。

だが、「英語ができる生徒」は昔からいるし、その子が英語のプロになることも、昔からある。そしてその他の生徒は、英語が嫌いになったり、あきらめたり、英語まがいのものを英語と思い込んで、一生を過ごす。

私がいう「英語ができる」とは、英語が自分の「もうひとつの皮膚」のようになることである。それは単語をたくさん知っているとか、英文和訳ができるとかとは違うレベルのことである。

英語は教科のひとつにすぎないから、「もうひとつの皮膚」にまでなる必要はないのでは?という疑問も起こると思う。しかし、「もうひとつの皮膚」になれば、英語は個性と人生を磨く道具になる。学校で強制しているならなおさら、英語は一人ひとりの個性と人生を豊かにしてくれるものであってほしい。

ではあらためて、「教室英語」はなぜ憂鬱なのか? 

それは、「英語の声」が生徒から出ないからである。英語の発音ができないで英語を「勉強する」のは、水に入らずに水泳を習っているようなものである。

英語の水に全身を浸し、水の感触をみずからの皮膚の感触とすりあわせる。そして全身をくねらせ、自分の力で泳いでいく。

それができれば、たとえ1 メートルでもそれは水泳である。水に入らず、プールサイトで真似をしても、それは水泳ではない。

英語の声に自力で入り込まない以上、それは英語をやったことにはならない。

私のこの考えは、間違っているのだろうか。


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