キング牧師の思想について、TIME に記事がでている。
キング牧師は、人間の平等というアメリカ独立宣言や合衆国憲法の理念に訴えたと思われているが、同時に、彼はアメリカ独立宣言や合衆国憲法の理念がもっている問題点にも気づいていたというのである。
問題点のひとつは、アメリカ合衆国の独立を果たした13州は、すべて奴隷制度を合法としていたことである。この事実は、合衆国の独立が白人優越主義と合体していたことを意味する。独立の理念は平等の理念と必ずしも一致しないのである。
もうひとつの問題点は、独立宣言や合衆国憲法は、人間の平等の実現を力強く「約束」した内容であるがゆえに、黙っていてもそれは実現するというイメージを人々はもちやすいことである。つまり、アメリカ自身が唱えた理念によって、かえって人々は人種問題について無関心でいることを自己正当化できる。
アメリカだけでなく、ソ連がマルクスの名をかたり世界に広めた「マルクス主義」も、人間社会の発展と平等が必然的に実現すると説いた。
そのため、ならば人間は坐して待っていてもよいのではないか、人間の主体的行動は不要なのかという疑問が起こった。
これは「主体性論争」と呼ばれ、日本では戦後の1947年から約五年間、総数200本以上と言われる論文の応酬を生んだが、理論的には決着が着いていない。
社会の自動的な発展、人間の平等の必然的な実現を約束する思想は人間を鼓舞する反面、個人の主体性をスポイルする傾向ももつ。
最後に、こまかいことだが英語の表現のことで気がついたことがある。
上の引用文で太字にした live out は、「終わりまで生きる」つまり「生命をまっとうする」という意味から、「実現する」「現実のものとする」というニュアンスまで広がる表現である(ジーニアス英和大辞典)。
live out という表現は、フランスのナチスへの降伏後、真珠湾攻撃の前にチャーチルとルーズベルトが発表し、日独伊に対抗する連合国の理念をかかげた大西洋憲章 the Atlantic Charter(1941年8月)第6項に登場していた。
私はこれを読んだとき、こうした高度な政治的宣言に live out という生活的で平易な表現がでてくることに感動した。
日本国憲法九条の原型となったポツダム宣言第九項にも日本国憲法25条にも、live 「生活」という語が出てくるが、これは大西洋憲章に源流があると思われる。
キング牧師も “live out the true meaning of … ‘all men are created equal.'" ということを、アメリカ独立宣言も合衆国憲法も超える原理と考えていたのかもしれない。