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せめて、人間らしく

昨日は3回目の結婚式記念日でした。
もう4年も経つんだなぁ。

さて、

そんなわけで

選挙ですね。

自民党の総裁選前に、
私たち市民団体(選択的夫婦別姓・全国陳情アクション)に対してこういうこと↓が行われたので、

『拝啓 高市早苗議員。自民党総裁選出馬の前に、国民に説明しなければいけないことがあるのではないでしょうか?』
【前編】⇒ https://chinjyo-action.com/takaichi1/
【後編】⇒ https://chinjyo-action.com/takaichi2/

ポリタスTVでの解説
https://youtu.be/EfsnClmcycw

もう何年も(人によっては30年近く)
待ち望んでいる選択的夫婦別姓の法制化は、
現政権下で実現することはないだろうなと感じています。

陳情アクションメンバーが、公明党の重鎮議員に
「おかしいことはおかしいと言ってください」と訴えかけても、
「高市さんが総裁になることはほぼないから安心して」などと言われ、
蓋を開けてみればこれですしね(よりによって政調会長って🤦‍♀️)

https://www.tokyo-np.co.jp/article/137033

「選択的夫婦別氏制度を早期に実現する議員連盟」の呼び掛け人である岸田さんも、総裁選で明らかにトーンダウン、
そして挙げ句の果てはこれ。

https://www.tokyo-np.co.jp/article/137541
ダメだこりゃ🤷‍♀️

いやぁ、こういうのって本当にあるんですねぇ。

 *  *  *

私のここ最近はというと、
仕事なり子育てなり人付き合いなり、何かしているときはいいのですが、
名前(日常生活の多くは戸籍姓=夫氏)を呼ばれたり、目にしたりするたびに、
解離というか、離人感というか…「さかい」「坂井」「夫氏」そのどれもが自分ではないようなモヤモヤに苛まれています。

どの名前を名乗っても、嘘をついているような気分。
逐一訂正をしてもしなくても、なにか大事なものを失っている気分。
私って何だっけ。私って誰だっけ。
湯婆婆に頼み込めば、名前返してもらえるかなぁ。

坂井智子のまま、働きたかった。
(結婚後に働き始めた派遣会社では、旧姓使用なんて認めてくれません、よ?たかいちさーん)

坂井智子のまま、開業届を出したかった。
(昨年、細々と開業しました。…と思ったらインボイス始まるっておいおいふざけんな)

坂井智子のまま、地鎮祭参加したかった。
(玉串料ののし袋には夫婦2人の氏名を書いたけど、終わってからおじいちゃん神主さんに「でもまぁ、昔の名前でしょ笑」って言われたよね。悪気はないんだろうね)

坂井智子のまま、住宅ローン組みたかった。
(司法書士さんに旧姓明記されたマイナンバーカードと住民票見せたけど、住宅ローンと名義が違うから土地の登記もできないし、何の効力もなかったよ。私は私の名前で財産も持てないよ)

坂井智子のまま、出産にのぞみたかった。
(この冬、第二子出産予定です)

せめてもの足掻きで、
開業届の屋号は「動物園散歩人 さかいともこ」としましたが、
戸籍姓(日本国の法律で“人”として存在が認められている「名前」)は「オットセイ智子(鰭脚類かな?)」のまま、
「さかいともこ」として活動をするのも、違和感がすごい。
私が欲しいのは、ペンネームでも、ハンドルネームでもないからこそ、「坂井智子」として「さかいともこ」を名乗りたい。
この感覚、言葉にするとめちゃくちゃややこしいっすね。

 *  *  *

不自由なく生活ができ
子にも恵まれ
働き口もあり
家を建てられ
新型コロナにも罹らず
母子健康で出産にのぞめ
夫は半年近く育休をとってくれる

私は幸せだと思います。
とても恵まれてると思います。

それでも、
「幸せなんだから」「恵まれてるんだから」を、
「名前を奪われたくらいで不満を言うな」に帰結させるのは、
些か暴論ではないでしょうか。

上に挙げたこと、
夫はぜんぶ自分の名前でできています。

でも、
私には認められないんです。
許されないんです。
(誰に?何に?)

日本は今なお、
『島耕作』シリーズはあっても
女性の名前はタイトルになりえない国です。

島耕作が作中で結婚して
「畑耕作」とかになったら、
スーパーマンのバイセクシャル告白のように、
「ポリコレだ!」「作品の世界観が!」と言われるんでしょうか?
(どちらも読んだことないし、知らんけど)

 *  *  *

夫婦別姓を求めている人だけじゃなく、
同性婚の法制化を求めている人や、格差をなくしてほしいと思っている人など、
社会的、制度的、構造的な差別を感じている人たちが訴えているのって、
「私たちを踏みつけているその足をどけろ」なんですよね。

それに対して返ってくる不思議な反応は、ネットでもリアルでもたくさんあります。
「『どけろ』とはなんだ、『どけてください、お願いします』だろう(どけてやるとは言ってない)」という典型的なトーンポリシングにはじまり、
「踏みつけることにも歴史や文化がある、まずそれを理解しなさい」
「踏まれてるのを直視するから痛いんでしょ」
「そもそも踏まれてるって証明できる?」
「踏まれてても生活できるでしょ」
「踏まれるのが嫌なら踏まれるようなことをしなければいいだけ」
「私は踏んでるつもりなんてなかった、加害者呼ばわりされるのは心外だ」
「踏むのをやめたら、踏み返してくるつもりなんだろう!」
まで、様々です。

「あなた、私のこと踏んでる。私、痛い」
に対して、まず言うべきことって、それ?

「助けてください。踏んでる人にやめるよう言ってください」
に対して、「私は踏まないけど、他人があなたを踏むことに関しては何も言えない」
って、一見“中立”のように見えて、踏まれてる側からしたら踏んでる人と同類なんですよ。

発言の自由(資格)やら、

個人の権利やらを履き違えたまま、
「踏みつけること」を正当化しないでください。
それすごく痛い。

ひとの尊厳を傷つけていい資格など、他人の権利を奪う権利など、誰にもありません。
「踏みつけている人」を直接批判するのは気が引けても、
「踏みつけるという行為そのもの」にNOと言うことは、あなたにもできるはず。

 *  *  *

私はただ、
誰の許可も取らず
何の断りもなく
名実ともに
私でいたいだけ。

そうあれる社会であってほしいだけ。

 *  *  *

選挙では「応援したい人」を選ぶことも、
「応援したくない人」を選ぶこともできるんだなと実感してます。
(むしろ、「選挙って『誰を当選させたいか』より、『誰を当選させたくないか』を考えるほうが大事だな」と思うようになった)

「落とす」というと、「貶める」とか「足を引っ張る」ようで、なんだか気が引ける…と思われるかもしれませんが、
そもそも人を傷つけたり、踏みつける行為を「認める」道理も「続けさせる」道理もありません。

まともに仕事をしようとしない人に
わざわざ仕事を与えてやる義理もない。

今現在、誰が「踏んでいる人」かがわかりやすくまとめられているので、こちらも参考に。
▼サイボウズ 青野慶久が呼びかけている『ヤシノミ作戦』HP
https://yashino.me/

▼ 2021年最高裁判所裁判官国民審査
https://www.asahi.com/senkyo/kokuminshinsa/

先の最高裁判断で、
現行の「強制的夫婦同姓」制度が「合憲」であるという判断を下したのは、以下の4名。
・深山卓也氏
・林道晴氏
・岡村和美氏
・長嶺安政氏
ぜひ今回の選挙でサヨナラしたいので、
私は迷わず×をつけるでしょう。

 *  *  *

賛同してくださる方は、
どうか選挙へ行ってくださいね。

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