情が汲めない母、理屈が通じない娘
年末、入ってくる情報を毎回頭からリロードする四女の話を綴った。
このなかに、彼女が音と色の共感覚を持っているようだという話を載せたのだが、読んでくれた友人が『共感覚者の驚くべき日常』という本を贈ってくださった。(Sさんありがとう!)
正月に一気読みした。
面白かった。
共感覚の種類や共感覚者の言動が、ではない。
友の一言をきっかけに、科学と認識されてさえいなかった共感覚の正体を暴こうと神経学の医師が探求する、その姿勢がよかった。調査し、仮説を立て、反証し、実証し、考察するという道程そのものに惹き込まれた。
きっかけとなった共感覚をもつ著者の友は実験に粘り強く協力する。その中で、否定的に捉え隠そうとしていた自分の感覚が紛れもない自分の一部だと再認識し、誇りに思っていく姿が医師の探求と重なった。
本格派のミステリー小説を読んでいるようだった。
★
本の仕立て方ばかりに目が向いているようでいけない。
肝心の話、それで共感覚ってなんなんだ? についてこの本から理解したことも、少しだけ。
なるほどそういうことかと娘の状態と重ねて合点したのは、共感覚が大脳辺縁系で起こり、共感覚が起こっている間、大脳皮質の働きが大きく低下したという実験の部分だった。
ざっくりいうと、辺縁系は海馬に代表されるような脳の奥にある部分で、情動や本能、自律神経に関係する部分をいう。皮質は脳の表面で情報処理や認知を行う、いわゆる「脳のしわ」部分だ。
人間の脳は皮質が高次に発達しており、辺縁系は原始的なものだと皮質優位に語られがちだが、実は違うとこの本は言う。
実際のところ、辺縁系も皮質と同じように大きく発達している。むしろ皮質より規模も数も大きい。辺縁系が担う動員的な力と皮質が担う分析的な力が統合され、情動と理性のバランスがとれて人間らしい行動になっていく。
共感覚は、誰もが起きている辺縁系の情報処理なのだが、その働きを受け取る皮質のところまでのぼって意識できる人がわずかしかおらず、大半の人が知らないだけなのだ。
共感覚が情動を司る辺縁系と関係し、皮質が活発だと辺縁系の動きは抑えられ、皮質の血流が抑えられると辺縁系に集まった多感覚の情報が意識にまで上ってくるらしい。そう読めたとき、妙に納得する自分がいた。
娘の言動に、心当たりが多すぎたからだ。
彼女の場合、歌声と色が結びついているが、結びつかないまでも光の見え方や音の聞こえ方は一般より情報が多い。光は矢が放たれたように尖っているらしい。音は猫よけセンサーから放たれる波動に打たれて耳を塞いでいる。情報が上ってきてしまうといったほうがいいのだろう。
そして彼女は、こうした自分の状態を言葉にすることが少ない。生まれたときからこの状態だったからわざわざ話すことがなかったというのもあるが、もうひとつ、うまく言語化することができないという理由もある。だから、もどかしい状態になると5歳児並みに地団駄を踏む。
計算、暗記、推論といった知的活動や運動が苦手で、抽象化した言語の理解も表現もできないのだから、学校での評価は散々だった。加えて感覚過敏、自律神経が不安定、時折情緒不安定になる。こうした彼女の特性が、皮質と辺縁系のバランスだったのだとすると、いちいち説明がつく。
★★
なるほどねぇと読み進め、あと少しで読み終わろうというところで、突然娘が絡んできた。なんというタイミング! もうちょっと待ってほしかった。
だがもうだめだな。本をもったまま、5歳になった娘の話をきく。
「おさんぽ一緒に行くって言ったよね」
いや言ってない言ってない。今本読んでるからさ。
「何の本?」
共感覚の本だと答えたら、ついっと手に取りページを眺めて、顔をしかめて返してきた。
「わからん。おさんぽ。行くって言った」
ええ? 約束したっけねぇ。えーっと、さっきまでなんかやってたんやろ。
「もうおわり」
おわっちゃったかぁ。じゃあ、あれやってみたら?
「あれはあしたするの」
あらそうなの。困ったねぇ。お正月だからちょっといつもと違うのがあかんのかなぁ。体動かすと気が変わるはずなんだけど。
おさんぽ行っといでよ。
「いくつもりだったけど面倒になった」
あらあら。寒いしねぇ。でも今のうちにおさんぽ行ったほうがいいよ。
「一緒に行くって言ったよね。おさんぽ」
このループが何周か続く。
調子が悪いときは文字通りの地団駄を踏む状態になる。床をごろごろ転がって訴えることもある。
面白いことに、このときの彼女は制御不能になっているが、だからといってこの状態に気分が落ち込んでしまうことはない。だから、いままで一度も「こんな自分が情けない」といった訴えはしてきたことがない。
皮質サイドによる分析評価を伴わないからなのかなぁ。
もっとも、5歳児モードの間の記憶はいつもほとんど残っていないようだから評価のしようもないのかもしれない。
ぐだぐだ絡んでくる娘を見ながら、これがまさに皮質系が抑制された状態というやつか、まあでも今日はバタバタはしてないし、多少は言語化できているから中レベルかなどとつらつら考えていたら怒られた。
「本読むのやめっ」
いや読んでないやん。つーか読ませてくれ、あとちょっとだから。
おさんぽ先に行ってて。つきあったげる。読み終わったら合流するから。
外で会った娘は、けろっとした表情でどんな本だったかを聞いてきた。
どこから説明してよいやら迷ったが、とりあえず脳の中には大脳辺縁系と大脳皮質というものがあってね、と説明してみた。
やはり難しかったようだった。
「よくわからん。家に帰ったらゆっくり説明して、その大三角形の話」
★★★
辺縁系と皮質のバランスがとれていない彼女の場合、いま受け止めた感覚をうまく伝える術がないことがなかなか難しい問題だといえる。抽象化した言語は皮質の領域だから、辺縁系で情動が強く働いているときほど言葉が出てこないという状況になってしまう。
だから、いったん落ち着くまでは外部からゆっくり言葉を刷り込み、自分の状態を客観できるようになる助けが必要だ。
バランスがとれず苦しいときに早く落ち着けるよう、安定しているあいだに繰り返し説明し、少しずつ理解を増やし、言葉で表現することに馴染んでいくことがなによりの訓練になるのだ。
辺縁系と皮質系の話に興味はもってもらえたので、家に帰ってからケーキのスポンジとクリームの層を例にして解説してみた。そしたら大三角形と語感が混じってショートケーキに進化してしまった。
まあ細かいところはともかく、何かのバランスが大事だということだけ記憶されれば良しとしよう。
理屈の通じない辺縁系タイプの娘が観察ばかりして理屈っぽい皮質タイプの母親とセットになっているのは、大きな枠組みでバランスを取りながら道を探せということなのかもしれない。
本の奥付は2003年7月に3刷とある。共感覚の探求もその後いろいろと進展しているはずだから、今日得た理解は誤謬を含んでいるかもしれない。最新の情報にしても、彼女の生きづらさをたちどころに解決してくれる術が示されるものではない。
言葉の理解はゆっくりとしか進まないが、それでも薄い層が重なるように、少しずつでも着実に彼女を覆い、鎧となり盾となっていくだろう。いずれは情動の強さが彼女の強みとなる世界を探す灯りともなるだろう。
彼女の情に寄り添えない理屈屋の母に与えられた役割は、言葉の盾と灯りを少しでも多く見つけられる道を示すことなのだという気がしている。
新しく始まったこの1年、どのくらいの言葉を重ねていけるだろう。
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