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エレクトラム銀貨

 「止まっちゃたね。」
特に話すこともなく、お互いに立ちながらノートを読み込んでいた。彼女の放つ一言に僕はそうだねとしか答えられなかった。

 「ただいま、線路内に人が侵入したため、急停止しております。お急ぎのところ誠に申し訳ございません。」車内アナウンスで状況を把握した。起立した状態で書物を読むというのは少し疲れる。僕たちは休憩がてらに世界史の問題を出し合った。車内は静かだったけど、僕たちだけはユリウス2世だとか、マグナ=カルタだとか言い合った。僕たちが賢いことを周りにアピールするためにエレクトラム銀貨なんて言葉を発した気がする。受験生の3000人に1人しか知らないような細かい知識だ。でも僕たちは知っている。

 彼女と知り合ったのは高校3年生になった春。同じ予備校に通い、友達になった。普通は高校生にもなったら塾や予備校で知らない人間に話しかけるなんてのはあり得ないのだけれども、僕たちは違う。
それは共通点があったから。2人とも奨学生だった。2年生のときに受けた模試の点数が特段高かったから3年生の授業料は全額免除にしてくれた。さすが大手予備校、わかってるじゃないか。

 僕はそもそも大金を払って予備校に行けるような家庭環境ではないので、この制度を支えなければ通えなかった。そんなこんなで奨学生採用者説明会があったとき隣に座った彼女はとても印象に残った。美しさを形容する例えや比喩表現はいろいろあるが、そんなもので現したら失礼に当たるのであえてしない。僕は彼女に一目惚れだった。

 受験が始まるのは3年生の春からという人が大半だろう。自分で言うのもおかしいが、わりと勉強はできる方だったらしく、ハイレベル国公立大学文系コースという鼻につく名前のクラスの中では、真ん中より上あたりの成績だった。
 彼女も同じらしく、英語、古文、世界史の授業は同じだった。会話を交わすこともなく、相手は僕のことなんか見向きもしなかった。僕だけが、同じ高校の友達にあの子が可愛いだとか言っていた。今思えば、予備校に何をしにきているのかと恥ずかしくなるような話だ。

 8月、セミの音がやかましい。せっかく地上に出てきてもらったところ悪いけれども、早く死ねばいいのに。嘘のように真っ青な空に、高く高く、真夏を彩る入道雲が登っていく。
「慶應義塾大学法学部小論文」と名付けられた夏季講習の授業をとった。「慶應義塾」ってごちゃごちゃしていて強そう。国公立クラスだったけど、それは学力の話で、志望校は専ら慶應だった。


 「ここ、座っていいですか。席とかって決まってますか。」彼女と交わした初めての会話だった。「どうぞ。」僕はコミュ障を際限なく発揮した。

 授業は小論文を書いて、生徒同士で読み合い添削するようなことをした。漫画のような話だが運よく彼女と答案を交換して読みあった。彼女の文章は僕のそれなんかよりもとても綺麗で、日本語も洗練されていた。至高の領域に近い。。。授業は5日間連続で行われて、毎日彼女とタッグを組んで、最終日には横浜駅まで一緒に歩いた。

 夏休みが終わり、みんな目の色を変えて勉学に励み出す。それでも僕は特に変わらずマイペースを貫いていた。そこからは本当に機械的な動作をただ繰り返すロボットのような日々だった。だけど、確かに一つだけ変わったことがある。2学期からは彼女と一緒に小論文の授業をとった。2人ともいくら授業をとってもタダだったから、なんの問題もなかった。毎週木曜日が楽しくてたまらなかった。今日も彼女に会える。別に付き合っているわけでも、両思いを確認したわけでもない。けれど確実に言えるのは、ただの友達ではなかった。

 世界史には通史と言われる、いわゆるみんなの知っている歴史の内容と文化史と言われる絵画や作品、その作者などを覚える2つの分野に大別される。普段の講義では通史しか行わないため、文化史は夏季講習とか、冬季講習にまとめて覚える「文化史集中講義」をとった。彼女もそうした。
 普段は横浜駅の校舎に通っているのだけれども、文化史は秋葉原でしかやらないと言われたので秋葉原の校舎まで講義を聞きに行った。彼女とは横浜で待ち合わせ、電車で一緒に通った。帰りも一緒に帰っていたけれど、何を話したのかさっぱり覚えていない。

 5日間にわたる文化史の講義はクリスマスが最終日だった。行きの電車で路線に一般人が侵入したとかで足止めをくらい、講義を2人して遅刻した。6時に終わる講義だったから、外に出たら冷たい風と真っ暗な空、それを照らすイルミネーションやビルの照明、様々なものが跳梁跋扈していた。

 「お腹減ったね。」講義中にかなり大きい音を鳴らしていたから、そうだろうなとは思っていた。僕はお腹が空いてなかったけど、彼女ともう少し一緒にいたいから、何か食べてこっかと返してよくわからないイタリアンに入った。サイゼリア以外のイタリアンで食事するのは初めてだったし、こういう場合って奢らないといけないのかなとか、いろいろ思案していたから酷く疲れたような気がする。

 レストランを出て駅に向かう。あのイルミネーションが綺麗だとか、ツリーがあるだとかで話しながら駅に向かった。彼女が楽しそうにしているのをみてなんだか自分まで幸せになったような気がした。

 電車に乗るときはいつもお互い教科書やノートを読んでいるのに今日だけは違った。サンタクロースにもらったものだとか、クリスマスのとき家族で何をするのかだとか話していた。

 秋葉原から横浜まではかなりかかる。かなり長い時間を鮨詰めの電車に揺られる。揺れたとき、手が当たった。彼女を一目見たとき以来、思えばあらゆることに思案を重ねて、踏み出すべき一歩を遅延させることに汲々としていただけの歳月だった。ここしかないと勇気を振り絞って僕は彼女の手を握った。顔は見れなかった。

 ***

 彼女とはそれ以来まともに話すことはなくなった。塾にいくことがめんどくさくなったし、やっぱり最後の1ヶ月くらいは真面目に勉強するかと思ったから。思えば彼女の連絡先は知らないし、チャットなんてしたこともない。いつも口頭で時間を了解しあっていた。不思議だけど、受験生の時はスマホを家に置いて出かけることも多かったから、生活にスマホというものがほとんどなかった。

 彼女が今どこの大学に通っているのか、はたまた浪人しているのか、全くわからない。でも僕の中には確かに彼女との受験の記憶は存在し、クリスマスの度に思い出してしまうのかもしれない。それが最後の言葉になるなんて、ゆめゆめ思っていなかった去年のクリスマス、横浜駅での「じゃあね。」
 もしかしたら、彼女は気づいていたのかもしれない。それでも何も言わなかったのだろうか。

 また会えるだろうか。別に会えなくても良いか。それでもきっと、彼女は強い。だって、エレクトラム銀貨を知っているのだから。

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