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科学の自然観と、いまを生きる僕たちの価値観

まわる時間とすすむ時間

ダイヤモンド・プリンセス号が大騒ぎになっていた2月下旬、僕はインドにいた。知り合いの研究者に招かれて1ヶ月ゲスト研究員として滞在をしていたのだ。予定ではそのあと、住んでいるデンマークには戻らず直接日本に行きさらに1ヶ月間、日本で研究をする予定だった。

しかし、日本に戻ったところで実りある滞在になるとはとても思えなかった。場合によってはデンマークに再入国できなくなるかも知れない。急遽予約していた日本行きのチケットをキャンセルして3月10日、インドからデンマークへと戻った。

デンマークでも2月末には初の感染者が確認され、感染は急拡大していた。帰国の2日後には大学から「可能な限り大学に来ないように」とのお達しが出され、その翌日の3月13日、デンマーク政府はヨーロッパで初の国境閉鎖に踏み切った。

こうしてロックダウン生活が始まった。

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それから数日。頭に浮かんだこと。それは

「これはもしやスキルアップするチャンスでは?」

Amazonで教科書を取り寄せて専門外の勉強を始めた。

ただふとしたときに思う。これは何のための、誰のためのスキルアップなのだろう。このまま一生家のなかかも知れないのに?急に襲い来る虚無感。あぁ、何もかもが虚しい。

パートナーもおらずほとんどの人間関係が職場に集約されてしまう海外での一人暮らし。穏やかな精神状態を保つのはそう簡単なことではない。

そんな時に読んだ、ある随筆のこんな一文。

「こんな機会だからこそ」

だからこそ、落ち込んでいい、泣いていい。弱音を吐いていい。クッキーなんか焼かなくったっていい。読書や勉強して成長を求めなくてもいい。SNSの中と比べなくていいし、無理矢理アウトプットしなくていい。ちゃんと感情を感じていい。 

寝室とデスク、そしてトイレの3点をぐるぐるぐるぐる。ひとりぼっちの繰り返しの毎日。「こんな機会だからこそ」のスキルアップだけが、昨日と違う今日を運んできてくれると無邪気に信じていた自分を見つけた。

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昨日と同じ今日が、どうしてこんなにも堪え難いのだろう。

むかし読んだ『時間についての十二章』という本を思い出す。

著者の内山節さんは東京と群馬県上野村で2拠点生活をしている哲学者だ。上野村ではみずから畑を耕し、川で魚を釣り、村人としての日々をおくっている。

内山さんは2拠点生活を通じ、村には「直線的な時間」と「円環する時間」の2通りの時間が流れているのではないかと思索する。直線的な時間とは

過去、現在、未来が縦の線で結ばれている。それは西暦とか年号であらわすことができるような過ぎゆく時間であり、けっして戻ってくることのない不可逆的な時間である。(『時間についての十二章』)

これは我々が生きている時間だ。他方の円環する時間は次のように説明されている

もうひとつの時間世界では、春は円を描くように一度村人の前から姿を消して、いま私たちのもとに戻ってきたのである。一年の時間が過ぎ去ったのではなく、去年と同じ春が戻ってきた。時間は円環の回転運動をしている。(同上)

わたしたちは春が来たから、去年の4月から365日ほど経ったから桜が咲くと信じる。しかし、それとは真逆の、桜が咲き、山々が青く染まるから「春が来た」と思う時間感覚も存在するのだ。

この感覚の下では、畑仕事を終わらせることや冬支度をすること、そういった行為そのものが1日の終わりとか、秋から冬への時間を「生んで」いる。

まわることのない、まっすぐな時間のなかで現在は未来のための踏み台、通過地点になってしまう。そこでは昨日と同じ今日、停滞こそまさに忌むべきものなのだろう。

ムダのない世界

わたしたちの殆どが生まれた時から感じている「直線的な時間」はどこから生まれたのだろう。
そこには産業プロセスの徹底した分業化や"職人技"の排除が関係しているという。

強力な資本家が台頭してくるまで、ものづくりには職人の技術やカン、そういった数量化出来ない「なにか」があり、その暗黙知にしたがって工程を進めていくことこそが「時間を進める」ということだった。

しかし「時間あたり○○円」という形で労働者を雇用する資本家にとって、そういった定量化できない知恵や独自の時間は職人たちが効率的に働いているのか、それともサボっているのかの判断を難しくさせる。

そこで、フレデリック・テイラーという人が「科学的管理法」というアイデアを提案する。これは行うべき作業を徹底的に細分化して、ひとつの工程にどれだけ時間がかかるかを測定するというものらしい。

この管理法のなかで職人の「こだわり」や、商品の 用途 を超えた完成度に費やす時間は「無駄」と見られるのだろう。そういった一切を捨象して、目的の商品を、与えられた時間でもっとも多く、現代風に言えば「コスパよく」つくっていく。いま私たちは、この考え方を当たり前とする社会に、きっと頭のてっぺんまで浸かって生きている。

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ところで、僕の肩書きは一応物理学者ということになっていて毎日いろいろと数式を立てたり解いたりしている。だからなのだが、テイラーのいみじくも「科学的」と名付けられた管理法、目的に関係ない無駄を全て削ぎ落として最適な方法を見つけるという考え方は、近代の物理学が生み出した自然観そのものではないかと思ってしまう。

18世紀の物理学は、それまで一見バラバラに映っていた物理法則の裏に、とんでもなく深淵な理論があり、自然現象は「無駄」を最小にするような形で生じるのではないか、ということに気付いた。

はじまりは光の最短経路問題だった。光が鏡に反射する時、なぜ入射角と反射角は等しいのか。空気中から水中に光が入る時なぜ屈折を示すのか。驚くべきことにこれらの問題は「光は発射された場所から当たる場所まで最短時間で行きたがっている」考えると説明がつくのだ。

また、ものを投げるとそれは放物線を描く。しかし、なぜヘビのようにくねくね曲がったり、あるいは放物線に似ている別の曲線を描いてはいけないのだろうか。

答えは光の場合と同様だった。「作用」と呼ばれるエネルギーのような量を想定すれば、ものを投げる場合に限らずどんな物体もまるでそれを最小化したがっているかのように動くことが分かったのだ。

自然現象に目的はないし、物体は知覚しないし思索しない。それは当時でも共有された常識であった。それでもなお、この発見は自然界の「真理」のようなものの存在を予感させるには十分すぎるものだった。「最小作用の原理」と呼ばれるこの原理が明らかになっていく時の興奮は、いまもなお文章から感じられる。

わたしはこれらすべての法則の土台となる普遍原理を発見した。(略)この原理は(略)あらゆる有形の物質の運動と静止を支配している。(略)これほど美しくこれほど単純な法則は、創造主にして物事を指図する存在である神が、目に見えるこの世界のすべての現象を起こすべく、物質中に仕組んだ唯一のものではなかろうか。(『宇宙論試論』,モーペルテュイ)

このロマンチックな自然観は後に一部修正を迫られることになるのだけれど、「最大・最小」という概念は物理学において絶対的といって差し支えないような地位に鎮座することになる。

物理学は人類が持っている学問のなかでもかなりの成功をおさめた分野だろう。この方法論に従えば重い物体を動かし、電磁気を操り、車を走らせ、コンピューターをも動作させることができる。

贔屓目に見ているところがあったとしても、文明の大きな発達をもたらした物理学の自然観、「無駄のないものが選ばれる」という自然観が、時代の空気や価値観に何かしらの影響を与えていても不思議ではないのではなかろうか(科学をつくっているのは人間なので、その逆ももちろんあると思う)。この感覚はいまや私たちの日常に満ち満ちている。たとえばGoogle Mapなどの道案内機能は「移動時間・距離」の最小化以外のなにものでもないし、功利主義の「最大多数の最大幸福」だって幸福の総量の最大化だ。

これからのこと

ロックダウン下の繰り返す毎日が耐えられないのはなぜだろう、と考えて時間感覚の話や産業体制、近代物理学の自然観と見てきたのだけれど、広い意味での科学が時代の価値観とか空気をある程度作っているとするのならば、いま研究が進んでいる科学が作っていく未来の空気は、現代のものとはまるで違いそうだなぁ、と思ったりしている。

というのもここ最近、これまで「無駄」だと切り捨てられていたもの、とくに「ノイズ」が実はとても重要なのではないかと言われるようになってきている。

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たとえば推薦システム

これはAmazonやNetflix、Tinderやビスリーチなどありとあらゆる、と言っても過言ではないwebサービスで使われている「この商品を購入した人はこんな商品を買っています」「あなたにおすすめの○○はこちらです」という「オススメ」を生み出す仕組みのこと。

ひと昔前の推薦システムは関連するジャンルのなかで「最も人気が高いもの」から順に推薦をしていたらしいが、これはうまくいかない。クラシック愛好家に『第9』、 映画ファンに『タイタニック』を勧めても、怒りはしないだろうがそのシステムに再びオススメを聞こうとは思わないだろう。

利用者は自分の好みの範疇ではあるけれど知らなかった、「許容範囲の意外性」を求めている。「良い塩梅」というのはどうも古典的な最適化とは相性が良くない。

この問題の解決策のひとつは最適化をした後、少しノイズを入れることらしい。例えば、利用者データベースを元に興味が似通った人をクラス分け(最適化)をして、その後同じようなクラスのなかに入っている人の閲覧履歴からランダムに選ぶ、など。

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あるいは細胞の個性について

生物学はここ最近観測技術が飛躍的に向上していて、色々なことが分かってきている。例えば、これまで同じ遺伝子を持っているクローンの細胞では実際に働いている遺伝子も全部同じだと思われていたのだけれども、実はそういう訳でもなさそうなのだ。

動画では細胞のなかで働いている遺伝子を緑と赤で光らせて調べている。古典的なアイデアが正しければみんな同じ遺伝子が働いて同じ色になるはずなのだけども、割とカラフルだ。

最適化の考え方に従うなら、生き物は一番良い戦略をとってみんなそれになればいいのでこんなバラバラになる必要は特にない。ところがどうも、これは「あえて」揺らいでいる節があるそうで、ノイズを持って多様になることが集団全体としては良いらしい。

ただこの「揺らぎ方」が最適なのかどうかは今ひとつわからない。進化論の話を聞きかじると「強いやつしか生き残れない」という印象を持つけれども、実はそこまで進化は厳しいものでもない。

確かに揺らぐことに利点はあるのだろうが、その程度などは実は結構適当なのかも知れないし、あるいは他の機能との兼ね合いで妥協しているのかも知れない。

どうやら「生きる」ことはごく少数の機能の最適化で理解できるほど簡単なものではなさそうだ。もちろん、目下研究が行われていることだから断定的なことは言えないけども。

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ここで挙げたどちらの例でも、近代にはまったく顧みられなかった概念が注目されているが、これには明確な理由がある。コンピューター技術の発展によって「分かること」が増えたのだ。

今から考えると驚くべきことだけども、コンピューターが作られるより以前はざっくり言って3つ以上のものが相互作用する問題は解けなかった。例えば太陽と地球、月が互いに相互作用する問題はコンピューターなしでは通常解けない。

つまり普段目にする現象のほとんどは解けない。

そのなかの、ごくごく限られた「解ける」問題から得られた知見だけからでも人類は文明を大いに発展させることが出来た。そして科学によって自然の大部分が、あるいは私たち人間についてをも、理解ができるという気分に何となくなっている。

ただまだほとんど、本当になにも分かってないのだ。

科学がより進歩した未来では、何か別の概念が最適化に取って代わって、新しいパラダイムを形成するかも知れない。そんな未来で人々は、どのような時間感覚や価値観で日々を生きているのだろうなと、たまに夢想したりしている。

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