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「人を動かす情報術」(ちくま新書)は既に絶版になっています

背景と経緯

 2007年に筑摩書房から「人を動かす情報術」(ちくま新書,2007)という表題の書籍を出版しました。当時付き合いのあった、経営コンサルタントやマーケッターの人たちと議論しながら、特に現代人の意思決定について掘り下げたもので、元々は広告PRの本として書いたものです。かなり時間を掛けて執筆したもので、それなりに濃い内容にはなったと思うのですが、大して売れもせず、話題にもならず、いつしか店頭からも姿を消し、数年後には絶版になりました。出版社から連絡があって、倉庫にある分の半分を買い取りました。後は裁断されて、この世から消え去りました。買い取った分は、もう手当たり次第に配ってしまいました。酔っぱらって、なんかサインまでして誰かにあげちゃったものもある気がします。世に出ないことを願いますが…。

 長くAmazonで細々と中古本1円で売られていましたが、なぜか最近若干値段が上がって来ており、2021年12月11日の時点で、2,442円になっています。 

 余りAmazonの書評は読まないのですが、だって上から目線のものが多いし、届け方とか包装の仕方とか、オレ関係ないじゃん的なものもあって、精神衛生上良くないので…。中に、こんな書評がありました。

メディアウォッチャー
マーケやIR・PRのプロ向け。新書の割りに読み込みに本腰が要るが。
新書にしては少々アカデミックで読むのに少し時間がかかるが、読み応えはかなり十分。精読の価値があると思う。ハードカバーでも良かったんではないかと・・・まぁ新書ならお得だが。
「情報スタイリング」という概念を提唱している。これってウォルター・リップマン系か、と一瞬思ったが、とらえ方はもう少し包括的で上位の概念にある感じ。
「情報」という切り口にこだわっているが、情報を集めて分析処理をよりうまくやるといった、受身型の情報リテラシー向上論ではない。むしろ逆で、情報というものがもつ本質的特性をうまく使って、いかに原始意図(著者用語)の伝達を適切に行って他者の意志決定に影響を与えていくのかという
能動的な情報伝達戦略論の序論とでもいえばよいだろうか。
マーケやIR・PRの各施策の本質的なメカニズムみたいなものを解剖し、
「情報」という特性で、あらためてそうしたメカニズムの動作原理を定式化し、事例ベースでの説明を試みている。上で序論と記したが、いくつか記されている動作原理は即応用できるが、さらなる詳細を続編で展開するか、ハードカバーなどの少し大版で図解などを絡めて詳述してもらえると、実務ベースで腑に落とし込んで役立てやすくなるのでなお良い気がする。
こういう私も情報スタイリングされているのだろうか・・・。

 もうオチまで付けてくださって、ありがたい次第です。そうなんです、タイトルと中身が、ちょっとズレているのかもしれません。

因みに、トーハンによるこの年の、新書の売上ベスト10です。(https://www.tohan.jp/pdf/2007_best.pdf

女性の品格 装いから生き方まで 坂東眞理子 
日本人のしきたり 飯倉晴武 
国家の品格 藤原正彦
いつまでもデブと思うなよ 岡田斗司夫
生物と無生物のあいだ 福岡伸一
世界の日本人ジョーク集 早坂 隆
不動心 松井秀喜 新潮社
食い逃げされてもバイトは雇うな 禁じられた数字 (上) 山田真哉 
裁判官の爆笑お言葉集 長嶺超輝
スローセックス実践入門 真実の愛を育むために アダム徳永

 あー、こんなのあったねという感じですが、で、ブックオフの新書コーナーの常連さんという感じですが、まぁこういった本には勝てなかったというわけです。書くからには売りたいですけどね。

 実はこれを執筆する時に、かなり大量の採用されなかった部分があります。大体新書は200ページ程度ですので、当初の原稿を大幅にカットして行きます。今、そのアウトテイクを読み返していると、決して古びては無く、むしろ他の部分と一緒になったほうが、より意図が伝わるように感じています。

 2007年と言えば、iPhoneが発売された年で、Androidは翌年に発表されます。要はまだスマホが一般的ではなく、もちろんSNSなどのサービスもmixiが唯一だったように記憶しています。そこから技術の進歩は著しく、数年後の3.11東日本大震災を切っ掛けに、LINEのようなサービスが、広く認知されて行きます。こうして技術そのものは大きく変化して来ましたが、情報の本質、すなわち人が合理的な意思決定をするために必要なモノという点は、全く変わっていません。

 原著が絶版になっていることを鑑み、こうした採用されなかった原稿や、その後書き下ろしたものなどを追加しながら、新しく「情報によって人を動かすこと」についてまとめて行くことにしました。そして新たに電子書籍化を目指したいと考えています。もちろん原著の出版社とも交渉が必要ですが、以前聞いたところ、基本的には再販予定も電子書籍化の予定も無いとのことでした。
 正直に言えば、個人的にはもう紙の本自体を執筆する予定はありません。このあたりの事情はこの後述べますが、ここまで電子書籍を作り公開するハードルが下がって来た現在は、そちらを意識しなければもったいないと思っています。

紙の本について思う事

 ご存知の通り、紙の書籍は、現在は大変な数が出版されています。編集、出版の世界にも大幅に技術革新が導入されていることに加え、ブログやSNS等で、誰でもが容易に情報発信ができるようになって来たということも大きな理由でしょう。
 個人的には、21世紀より前に出された本と、それ以降のものは、本質的に異なっていると思っています。自分自身が執筆した本は、完全にそうです。21世紀以降のものは、執筆の素材から調査、検証まで、全部ネット経由で可能です。少々文章力のある人でしたら、ネットの検索結果を上手に編集して、一冊の書籍を執筆することは、十分可能でしょう。Wikipediaを丸々剽窃したある著名作家の歴史本が話題になりましたが、あれは単に文章力がなかったか、編集の手間を惜しんだか、上手くできなかった結果であって、今では多くの本が、ネットのリサーチをベースにしているではないでしょうか。

 原研哉氏が「大量発話時代」という文章でこう言っています。

「本になる」、というのは、徐々に希少価値になっていく。言葉と紙の書物にとってこの傾向はむしろ望ましい。ここしばらくの間、作れば売れるということもあってか、本にならなくてもいいような雑駁なテキストが、深く顧みられることなく次々と紙に刷られてしまった。だから本の尊厳が下落して、そのほとんどは電子ブックに置き換えられうると錯覚されるような存在に成り果てていた。」

 とてもよくわかる指摘です。かつては、本を書くということは、少なくともプロとして何かを実践してきた人間が、十分に推敲を重ねながら情報発信をするという、非常に高度な技だったと言えます。ある1行のために、国会図書館まで行って、過去の文献や資料を当たって検証するなど、ごく当たり前のことでした。

 筆者が、人生で最初に執筆した「オブジェクト指向への招待」(啓学出版,1989年・絶版)は、たかだか200ページもない分量ですが、まさにそうやって作り上げるしかなかった時代の代物です。

 前述のように、「人を動かす情報術」が発売された月には、新書ブームだったせいもあって、某タレントや有名人がやはり新書を出しており、書店での扱いもそちらが中心になりました。紙の本は、1週間で売れるか売れないかがわかるそうですね。これほど多くの書籍が世に出るわけですから、書店としても限られた空間を売れない本のために使うわけもいかず、早々と意思決定してしまうそうです。
 元々、売れ筋とかを考えて本を書くということをしてこなかったので、当然とは言えるかもしれません。絶版になったこの本は、1週間で売れない本としての評価を受け、そのままこの世から姿を消してしまいました。大して売れなかったので、辛うじてAmazonで1円で出品されていた程度で、古書店でも見ることは殆どありません。

 あれから書籍の世界には、大きな変化が押し寄せてきました。言うまでもなく、電子書籍という新たなトレンドです。おそらく電子書籍を常に読んでいる人は、それほど多くはいないのではないでしょうか。その点から言えば、電子書籍のインパクトはそれほど感じていないと思います。しかし、書く側からすれば、売れ行きには関係なく、ごく僅かの読者に向けても書籍を用意しておくことができるというのは、大きな魅力です。何より、それを使って新たな研究や情報発信などが可能になるわけですから、何かを残しておきたいと考える人間には、大きな武器となります。近年出版される書籍は、特に新書のように多くが出ていくものは、紙に合わせて電子版も作られています。

 但し、今の電子書籍市場は、端的に言って、こうした特性が玉石混交を生み出していると言っていいでしょう。AmazonがKindle向けにコンテンツを増やす目的で、コミックなどを自由に出せるようにシステムを整備したため、実際にKindleストアの無料コーナーには、落書きとしか思えないような稚拙なものや、内容以前に、文章としての体をなしていないものなどが溢れています。それはそれで、ある種のフリークアートとして楽しめるものではあるのですが、自分の書いたものを、自分のハードディスクから引っ張り出す最高の手段としては、若干もったいない気がしています。

 但し誰でも自由に出せる電子書籍には、これが自由度の源泉でもあるのですが、編集者が存在しないという欠点があります。前述の稚拙な落書きなどは、絶対に当人以外の誰も見ないまま公開されてしまったのでしょう。そんな代物ですら、見ようと思ったら見れるということは、冷静に考えてみると、素晴らしい環境なのかもしれません。

 これもあくまで個人的な感覚ではありますが、近年、出版社に著者と対等に議論してくれる編集者は殆ど居なくなってしまった気がしています。コンテンツが世に溢れているせいもあるのでしょうが、突然連絡が取れなくなってしまう編集者もいますし、1冊の本にいちいち力を入れて編集するということをもうしなくなってきているのでしょう。

 例えば、自分でも力を入れて書いた「情報って何だろう」(岩波新書,2004)は、同社の優秀な女性編集者と、当時としては先端的な利用法だったのでしょうが、ワードの変更履歴を活用して、相当議論をしながら完成させました。執筆からもう16,7年近くも経ちますが、未だに模擬試験や入試問題などに使っていただいもらっており、あの時に様々な指摘をしてくれた編集者の眼の確かさを今更ながら感じます。

 大量にボツを食らった部分は、今読み直すと、本質的ではなかったり、技術や時代の変化によって急激に古びたりしまっていたりするのは、まさに編集者の指摘通りでしょう。あくまで個人的な意見ですが、今そうやって編集している本は、特に新書レベルでは殆ど無い気がしています。

 電子書籍のそういう、いい意味でも悪い意味でもアマチュアでもできるという点は、執筆者が補うしかないでしょう。ここでは、その実践として新たに「人を動かす情報術」を作って行きます。プロの編集者ではありませんが、眼の確かな何人かの知り合いに読んでもらおうと思っていますが、何よりnoteを利用したコンテンツとして公開することで、より内容が洗練されて行くことを期待してもいます。

 専任教員となって26年になります。めでたく定年を迎え、古巣から放逐されるわけですが(放逐です、あくまで)、元の職場には後足で砂掛けてやろうと思う位、今が面白い時代ではあるのは間違いありません。それはこの一連の感染症騒ぎで、全世界が突然オンラインにシフトしたことで、拍車がかかった感があります。経済活動も、教育も、政治も、この社会の殆どの部分が、「情報」だったのに誰でもが気づきました。社会システムの大半が、情報のやり取りでしかなかったわけです。例えば、近年話題になっている「メタバース」は、そこにポイントがあるように思っています。仮想世界とか言わなくても、もうそこは「世界」の一つであるわけですね。

 筆者が少し前に翻訳した、ルチアーノフロリディ「第四の革命―情報圏(インフォスフィア)が現実をつくりかえる」(新曜社,2017)では、インフォスフィア(情報圏)という、情報によって構成された世界を提起していましたが、それはメタバースを人から見た概念だったわけですね。やっと気づきました。

 情報教育と称して、ワード、エクセル、そしてデータサイエンスだのなんだの、つくづく、文系の情報教育が心配ですが、自分の関心は、もうそこには無いです。こんな時代だから、パソコンを使うスキルとか、ヌルイこと言わずに、もっと俯瞰して、見る必要はあるでしょう。

原著「人を動かす情報術」の目次は、以下のようでした。

第1章 情報には力がある
第2章 メディアが見えなくしているもの
第3章 情報には受け手がいる
第4章 メディアと意思決定
第5章 情報に情報で戦う
第6章 技術で変わるもの、変わらないもの

 この枠組み自体を、もう少しわかりやすいものにしようかと思っています。個人的には、このコンテンツを再び世に出せるのが一番の喜びです。あの時、四ツ谷にあった小さなコンサルタントの事務所で、長時間議論したことを本来の形にして行きます。
よろしくお付き合いください。

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