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21/11/06 展覧会の感想をちょっとずつ書く①

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行った(最初から本題)(出オチ)

バタバタしていて感想ノートも書けていないんですけど、
メモが残っていても、何かまとめて書かないと取りこぼして忘れてしまうなあという実感があって、
せっかく悩みに悩んでやっぱり行きたすぎてこっそり京都行ってこっそり帰ってきたので、ちょっとずつ書いていこうと思います。たぶんとっちらかりますが、ご承知おきください。いつもとっちらかってるから変わらんけど。

そして、全部書いてからアップしようと思うと途方もなくて、状況的にめげそうな気がしてきたので、今回は書いた分ちょっとずつアップしていく形式でいこうと思います。なので小出しになります。長いとやはり読んでくださる方も萎えると思うので……いないかもしれないけど……
全部で記事何個になるかわからないんですが。3〜4個が目標です。

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ちょっと書く、といっても福田美術館&嵯峨嵐山文華館は撮影OKなもんだから、写真を遡って記憶が甦るに伴い文章も長くなっちゃうんだな。きっと。
「京のファンタジスタ」ってタイトル、ファンタジスタってサッカーの言葉なんですか?スポーツ弱くて知らなかった……

それはさておき、展覧会。18世紀京都ですね。それを受け継いだ絵師たちもね。
てか若冲ですね。ライジングですね(それだけじゃないけど、一つとっかかりとして)(学芸員さんがドラマ監修ですからね)
福田さんと嵯峨嵐山さんは、SNSでアップされている作品をみると、知らなかったおもしろい絵ばかりでいつもびっくりしてるんです。さすが本場の京都、潜んでいる作品の数が段違いなのでしょう。うらやましい。そして皆仕事量がすごすぎて残ってる絵が多すぎるんだよ。超人か。
今回も知らないおもしろい絵はもちろん、えっこの絵が!という思いがけぬ出会いもあって、それがこちら。はい画像。

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蕪村………!!!!! ※六曲一双屏風の一部です

十二神仙図屏風、図版で知ってはいたのですが、まさかここで出会えるとは思いませんでした。
いつの間にやら福田美術館の所蔵になったそうです。(ぜひ何かと展覧会に出していただきたい)

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ご覧ください、このぎこちな力(パワー)。

一扇一扇みていくたびに、なにやら、ものすごいものをみせられている気がして、気持ちがざわざわするんですが、その力の正体がなんだかわからんのですね。いい意味です。
この絵が描かれた蕪村の丹後時代、画業としては前半で、そりゃ晩年に比べたら絵にまとまりはないのですが、それでもまったく萎縮していないところがすごい。
自分にはまだ実力がない、と思ったら、小さい絵になったり、線が慎重になったり、硬くなったりしそうじゃないですか。蕪村はならないんですよね……
大きな六曲一双に、勢いよく手を動かして、キレがあったりなかったりする墨で、堂々と描く。味わい深い、ぎこちない、素直なきれいさではない表情も形も。それらがひとつの絵になったとき、その纏うオーラがなにやら不可思議なものになっても、堂々と。
おそらく、その堂々としたパワーが、このなにやらものすごい感じの一因なのでしょう。

この絵の前でそれを感じた瞬間、ああ、やっぱり来てよかった、と思いました。ぎりぎりまで悩みに悩んでも、世間的には褒められた移動じゃなくても。
やっぱり実物の絵に出会わなければわからないことがいつもある。

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このあたり、ちょっと水彩画のスケッチっぽくないですか。そうでもないですか。
この墨の濃淡がまとまりきらない感じがね、さっきから蕪村に失礼なんじゃないか、でもそこがいいんですよ!!ね!!(大声)
しかし、とにかく顔や皺に陰を入れねば済まない性分と見える。尚更すごい顔になってしまう。ぎこちな濃度上がる。しかし、皺に陰を入れるというのはリアリズム的でもあるなあ。

そんなぎこちな濃度高めの中に、ちゃんと描けている感じの龍もいて、それがまた不思議なのだった。
この龍がしっかりしているということは、はて、この神仙たちの不思議な顔は、わざとか、それとも拙さゆえの天然か。
そういう、ただ初期だから未熟だとか拙いとか一言で済ませられない深みや謎めきが蕪村にはあって、そういう掴みどころのなさに惑わされるのが、また面白かったりするのだ。

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さて、このペースで行くと蕪村だけで1本終わりますよ。さすがにそれはどうかと思うよ。
この展覧会、なぜ序盤で蕪村かというと、展示室1のテーマが「若冲と蕪村」なんですね。
どっかで聞いたことあるな、とお思いの方もおいででしょうが、福田さんの学芸員さんはミホミュージアム/サントリー美術館の「若冲と蕪村」も企画していらしたのですね。わたしも知らなかった。展覧会後にいろいろ観てて知った。

だからトップバッターは若冲だったんですよ。若冲あとまわしにしてごめんなさい。
(余談ですが福田さんで入館券を買った時、嵯峨嵐山さんとの二館同時開催でも単館チケットもあり、もう一館にも若冲が出てます、と案内されました。若冲をみたいお客さんがやはり多いのでしょうか、若冲のネームバリューに思いを馳せた出来事でした)

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かっこいいですねえ。菊図です。
(今回カメラの具合か線が入ってしまった写真が多くて……すみません……)
(撮ってるとき夢中で気がつかないという……)

今回、若冲の水墨をいろいろみましたが、やはりキレがありますね。構成力、描写力、デザイン力。若冲の美意識。
ライジングに出演していた初期作品、蕪に双鶏図もでておりました。こちらは彩色。

(写真がないのでリンク貼ります)
隅から隅まで、画面のすべてに視線を向けていて、ピントをしっかり合わせて描き、気の抜けるところがない。鶏も、蕪の葉一枚一枚も、若冲こだわりの病葉も丁寧に、執拗に描かれているのが、みればみるほどわかる。その力に驚き、惹き込まれ、くらくらする。しおしおの蕪の葉の色とかかたちとか、すごく迫る。
葉や土の描写で、画面の上が全部ふさがれている。描写にこめられた力が絵から抜けず、こもって渦巻いているような感覚をおぼえる。

こんなキレキレの絵に囲まれると……蕪村のキレのない方の凄さが……際立ってしまう……どっちがいい?どっちもいい……
いや蕪村の全ての絵にキレがないというわけではないですよ。十二神仙のすぐそばにあった屏風は絖の濃彩で(茶筵酒宴図)、実に隙がなくて堅牢でしたし。ただこうして、若冲と蕪村が並ぶところに久しぶりに出くわすと、それぞれの美意識を、その相違を、肌で感じるのでありました。
どっちがいい?どっちもいい。どれもいい。それが18世紀京都。

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今回の京都行で、若冲は久しぶりにたくさんみたんですが、
その中で、若冲について今までわからなかったことを考えたり、今までこうだと思っていたことを覆されたり、
結果として、かなり若冲イメージが刷新されました。
その話は、相国寺承天閣美術館の「若冲と近世絵画」のくだりで、ゆっくり書きます。
こんなペースで書いててたどり着けるんだろうか。がんばれ。

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鶏の屏風たびたびみました。福田、嵯峨嵐山、相国寺で1点ずつくらいかな。
アクロバティック若冲。

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記事のヘッダーは蕪村です。百老聚星図(部分)。おじいちゃん大集合。
「左下に何も描かない空間があるのは晩年の特徴」という解説があり、
府中市美の蕪村展後期で、丹後時代の山水図屏風と後年の金屏風の山水図を見比べて、どっちも左下に「無」がある……!!!と気づいたことを思い出して興奮しました。

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次回は蘆雪と源琦と応挙先生がでます。
気長にお待ちください。