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2020/3/28 今年も府中市美術館春の江戸絵画まつりの話、絵レポつき

刻一刻と情勢が変わる世の中で、美術館をはじめいろいろな楽しみが削られていく今日この頃、何かと不安が降り積もっていきますね。
こういう時こそ小さな幸せを積み重ねて、気をしっかりもっていなければいけないなと、日々思います。

さてさっそく本題です。今年もこの季節が来ましたね。
府中市美術館恒例「春の江戸絵画まつり」ですよ。伝説の「へそまがり日本美術」からはや一年。
この状況の中、予定どおり3/14に始まりました。
(3/28、3/29は臨時休館となったそうです。今後も状況が変わるかもしれません。私としては一人でも多くの方にみてもらいたいものですが……)

(単独行動により無人のフォトスポットの写真で雰囲気を感じてください)

今年のタイトルは「ふつうの系譜」です。
昨年の「へそまがり」からしたら、ソフトなお題に思われますでしょうか。ところがどっこい、サブタイトルに『「奇想」があるなら「ふつう」もあります』とありますから、ペーペーの江戸絵画ファンの私ですら目を見開いてしまいますね。
あの伝説の本『奇想の系譜』への、アレですよ、なんて言えばいいんだ?
でも対抗ではないのです。「こういうのもいいですよねえ」という紹介、提案、府中市美は毎回そうなんですけど(と言いつつ、私が存じていますのは2013年「かわいい江戸絵画」以降のみですが)、そういう物腰の柔らかさなのです。
そこで『奇想の系譜』を引きあいに出すところに、やはりまごうことなき攻めの姿勢を感じますけど。やわらかい攻め。

先日みにいってnoteにも書いた、出光美術館の「狩野派」に通じるものが、絶対あるだろうなと思っていましたが、やっぱりありましたね。狩野派もしっかり出てるしね。
「ふつうの系譜」に登場するのは、きれいな絵、うまい絵、まじめな絵、おだやかな絵を、真摯に手がけてきた方々です。やまと絵であり、狩野派であり、円山四条派、原派、岸派、明治以降の画家たち、というメンバー。
そんな面子が揃った敦賀市立博物館のコレクション。今回、彼らを紹介するにあたり選ばれた言葉が「ふつう」。
「奇想」が「奇想」として立つ前提として存在する「ふつう」。
にくいなあ。奇想とちょっと韻を踏みかかっちゃってるところもにくい。

「奇想」に比べて、彼らのような絵が地味に見えるのは、わかるのです。
実際私も、日本の絵はブッ飛んだ絵にのたうちまわってナンボだと思っていましたし、今もそういう楽しみ方もします。
しかし、日本の絵をいろいろみにゆくようになってしばらく経ったころ、ある日突然、「応挙ってじわじわくるなあ」と思うようになりました。
蕭白によるかの有名なネガキャンにより印象が薄かった応挙でしたが(この話は前回のnoteにも書きましたが)、じっくりみているとなんだかすごくうまいし、みていて落ち着いたり、ただただ感服したり、いいなあと思うようになった。
そんな経験があるので、そして応挙を大きくフィーチャーした一昨年の春の江戸絵画まつり「リアル 最大の奇抜」が未だに忘れられないくらい良かったので、
今回のお題が「ふつう」だと知ったとき、なるほどこうきたか、と腑に落ちましたし、すごく楽しみにしておりました。

前置き長くないか。

展覧会では、まず蕭白と又兵衛が「ふつう」ではないものの代表選手として比較展示され、表情にギョッとし、心がだいぶざわついたところで、
さて、この先は「ふつう」だから落ち着いてしみじみと、決してのたうちまわらずに(※気持ちだけ)みられると思って臨んだわけです。臨んだわけですが。いや、実際そうみようと思えばできるんでしょうが。
わりとのたうちまわってしまいました。(※気持ちだけ)
ちょっと戸惑いました。
いや、穏やかにみられる絵もあるんです。やまと絵かわいいなってニコニコしたり、花や動物や景色がきれいだとか、人物の表情や着物の柄や描線が美しいなとか、そういう楽しみ方ももちろんしたんですけど。
きれいだけど非現実な造形の自由さ、描写の瞬発力や集中力、日本の絵だなあと感じるような目線、みたことない絵だの好きな絵師だの知らない絵師だの、
そのへんの細かい絵の話は、今回珍しく作ってみた絵入レポにだいたい入れましたので、この記事のいちばんうしろに載せますが。
(文章だけだと長くなってあれだから絵も入れてみようという魂胆だったのだけど結局どっちも長くなっているので何も意味がない)(読むと疲れる)

なんというか、自分は日本の昔の絵をみるとのたうちまわらずにおれないのか、
とどのつまりは「ふつうって何だ……?」という思いに至るわけです。
その時代の「ふつう」として描かれてきた絵たちの中にも、奇抜さやユニークさを見出してしまう自分は、やはり現代を生きてしまっているのかもしれない。
そんなわけで、自分は「ふつう」をちゃんとみることができなかったのかなあ、と、展覧会後も少なからず戸惑っていたのですが、買ってきた図録を読みましたら、
『「何が奇想で、何がふつうか」、果たしてそれは将来にわたって絶対なのか』『過去の美術は時代によって別な命を持つことがあります』
〈展覧会図録から、『ふつうの系譜とその美しさ』(金子信久氏)より、部分を引用〉
と、ふつうも奇想も価値観も絵の見方も変わってゆくものだということが書かれていて、すみません、ちょっと安心しました。

もしかしたら、「ふつう」の絵を味わうことと同様に、
「ふつうって何だ……?」と思わされることは、この展覧会のねらいだったのかもしれません。
だってあんなにおもしろくて、絵師や流派によっての個性もある絵がたくさん登場して、それでいて「ふつう」という言葉でまとめられていて。
「奇想」じゃないからブッ飛んでないはずの絵たちが、いや確かに「奇想」に比べたらブッ飛んではないですけど、それにしてもこんなにおもしろいじゃないかと、思わずにいられない。
自分だって、何をふつうだと思って、何を奇想だと思っているのか。
ぐらぐらと、岸駒の描く線みたいに、価値観が揺らいでくる。

そんな風に、「ふつう」にものたうちまわってしまう人間の心を揺るがすとともに、
展覧会の終盤では「ふつう画の楽しみ方」と題して、これはふつうの絵のよさがよくわからんなあという人に対して、こういうところに注目すると楽しめそうですよ、という提案なのでして(ここで「元々好きな方はただ楽しんでください」とあるのが、さすがだなあと思うわけですが)、
攻めの姿勢をとりながらも、そうやってあらゆる人に楽しんでもらおうという丁寧さが、今年もひしひしと感じられました。好きなものを丁寧に語ってもらえるのは本当にうれしい。
キーワードは「精密さ」と「たゆたう感じ」、「絵の具の美しさ」と「墨の深さ」。
私は特にこの「たゆたう感じ」が大好きなのですが、この感じ、うまく言葉にしづらいわ伝わりづらいわ、おまけにちょっと軽く見られがちだわ、というところなのを、やさしく的確に伝えていて、共感で泣けました。
府中市美術館にはときどき泣かされている。「リアル」の時なんか3回泣いてる。(印象深い所以)

そんなわけで、あまり「ふつう」らしからぬ味わい方をしてしまったかもしれないのですが、
後期展も行って、もう一度、もうちょっと揺らぎながら楽しみたいと思っています。後期にみたい絵もたくさんあるし。
それまでに、もう少し世の中が落ち着いてくるとよいのですが。

(「絶対にかわいいワンチャンを完成させてみせる」と気合を入れて臨むも見事に失敗し隻眼にしてしまったスタンプコーナーのしおり)

さて府中市美術館、夏には企画展「ここは武蔵野」で武蔵野図屏風(何を隠そう私は武蔵野図屏風ならもれなく好きです)を展示、
そして秋には開館20周年記念展「動物の絵 日本とヨーロッパ」で、家光の兎図がまさかの再登場だそうですよ。
たいへんだ。行き続けなければならない。