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22/5/2 美術館特設コーナーのお知らせと、ふつうの系譜展の話

noteでのお知らせの機を逸しておりましたが、
会期中になんとかお知らせをば。

府中市美術館での、春の江戸絵画まつり(今年もこの季節が来ましたね)
『ふつうの系譜 「奇想」があるなら「ふつう」もあります 京の絵画と敦賀コレクション』、
この展覧会で美術館エントランスに設置された、特設コーナーのイラストを担当しております。

美術館正面入り口から見えます(岸駒の垂れ幕が映り込む)

「ふつうの系譜」展は、敦賀市立博物館の日本美術コレクションを軸としてできた展覧会です。
特設コーナーでは、敦賀市立博物館の紹介と、
「府中と敦賀の意外なつながり 新田義貞の光と影」というタイトルで、
開催地・府中と所蔵地・敦賀の両方にゆかりのある人物、新田義貞を取り上げています。
☆美術館公式サイト→https://www.city.fuchu.tokyo.jp/art/tenrankai/kikaku/futsu_nitta.html

南北朝時代の武将、新田義貞のストーリーが、
府中・敦賀それぞれのゆかりの地の写真や解説とともに、イラストで紹介されています。

府中・分倍河原の合戦の絵(部分)を見上げて撮る

イラストは6場面あります。
南北朝時代を描く仕事は初めてでした。というか江戸時代以外は初めてでした。甲冑がんばりました。先人たちの武者絵のすごさが身に沁みました。
パネルの印刷も、実物を間近で拝見しましたが、とてもきれいに仕上げていただいてました。これほど大きく出力していただくことは滅多になかったので、実見してびっくりでもありました。

物語やエピソードを絵にすることは、これまでにも挿絵の仕事などでやってきましたが、
その場面をしっかり咀嚼して描くことに加えて、やはり絵としておもしろみがあるもの、余韻を感じられるものを求めてしまいます。
そこがしっくりくるものが描けると、大袈裟でなくこの仕事をしていてよかったと思いますし、脳から何かしらの興奮物質が分泌されている気がします。こわい。こわい発言はさておき。

ご縁をくださった、展覧会関係者のみなさま、本当にありがとうございました。
ふたたび府中市美術館の展覧会に、絵で関わることができて、光栄のきわみです。

敦賀・金ヶ崎城籠城の絵(部分)を見下ろして撮る

特設コーナーには、画家の藪野健氏による分倍河原合戦の絵や、
歌川国芳えがく新田義貞の浮世絵も展示されています!
(国芳はカーテンの中にいますので、お見逃しなく)

会期中、展覧会を拝見しに何度か伺いましたが、
そのたびに、ご来館のかたがパネルをご覧くださっている様子を見ることができて、しみじみと嬉しかったです。
展覧会期の5/8(日)まで設置されていますので、ご来館の際に、特設コーナーも覗いていただければ幸いです。
いずれ遠からず敦賀に行きたいですね。

***

以下、ふつう展前期後期をみての個人的な感慨をつらつらと。

今回は、2年前に途中終了してしまった「ふつうの系譜」と、あのときみた絵とあのときみられなかった絵との、再会と邂逅のうれしさとで、とにかくずっと胸一杯だったように思います。

しかし、「こんな絵ありました!?」という発見もかなり。
2年前、美術館へ行けないストレスで図録みまくってたのにな!やはり生で体感するのとは印象が全然ちがうのでした。
岸駒の虎だって、図録やポストカードやたくさんの図版で何度も見ているのに、あんなにふんわりとした、やわらかい絵だとは思いませんでした。想像以上にいい絵でうれしかった。
土佐光起の伊勢図の、ちいさな細やかさと鮮やかさと、背景の空間の歪み。源琦の描く人物の、髪や睫毛一本一本まで宿るうつくしさ。
土佐光貞のぽてぽてのお山もかわいかったし、曽我二直庵の水墨のお山もぽてぽてだった。松村景文の鴛鴦と雪はもちもちだった。
それからあの金の屏風、梅戸在貞の三保之松原図も。あの金の光の美しさ、色の使い分け、風景の奥行きはほんとうに、生でみなければわからないものでした。

前期、蕭白の模とおぼしきこわい顔の屏風をみていて、あまりこわさも驚きも感じない自分に気がつき、「なんか奇想、見慣れてきてしまったな」と思ったところで、はっとしたのです。奇想に見慣れるって、それはもはや奇想の役割を果たせていないではないか。
そして、この展覧会で「ふつう」とまとめられている作品たちに対しては、「細かすぎる……」とか「色数は少しなのに、こんなに華やかにできるんだ」とか、そもそも「なんでこんな描き方するんだ?」とか「なんでこんな絵描くんだ?」とか……そういう、「ふつう」と感じていれば得ないであろう驚きを得るわけです。
古人にとっての「ふつうの描き方」が、我々にとって「ふつう」ではなくなっていることは少なくありません。彼らに、我々を「ふつうじゃない」絵で驚かそうという意志はないのに、こちらは驚いてしまうのです。そのねじれを不思議に思います。
でも、おもしろい絵をおもしろいと思うこと、きれいなものをきれいと思うことでは、ちゃんと描き手と意思疎通ができるのがうれしいです。
2年前は、「ふつう」を冠した展覧会なのに何度もかき乱されてしまって、「ふつう」をちゃんとみることができなかったのかな、と軽く落ち込んだりしたものでした。でも、今回はそのシンプルな共感に幸せを感じることのほうが大きくて、戸惑わずにいられたと思います。

作家の、絵に対する姿勢への評価基準も、ちょっとずつ変わってゆきます。
日本美術の歴史にあって、その大きな変化は「リアルに描くことを目指すかどうか」だと思いますが、それによる破壊と創造は応挙先生とその弟子たちがみせ、開化後の悩ましくも美しい展開は明治以降の画家たちがみせてくれています。
明治に対してどうにも穿った見方をしてしまいがちな自分がいますが、自分が古人のように描けないのと同じように、どうしたって変わらずにはいられないのだ、そうして変わりゆく時代の中でも確かにうつくしいものは続くのだ、そういうもっとさらりとした感情でみたほうがよいなと、先日の清方展も通して思ったのでした。閑話休題。

今回、圧倒的存在感を放っている原在中も、絵そのもののおもしろさはもちろん、絵をみながらその姿勢について考えました。その点でも、前回より在中をたのしめたかもしれません。
システマティックで、真面目で、着実に段階をふむ描き方に、一切のひるみがありません。絵具や筆と戯れる、という感覚はほとんどなく、ただただ美しい完璧な一筆を積み重ねていくのです。
絵具と筆と戯れ、感性で、精神性で絵を描ける画家のほうが「ほんもの」なんじゃないか、という無意識にとらわれるようになったのはいつからだろう。それとはちがう感覚で、堂々と絵を描きつづける在中は、八十すぎまで現役の絵師でありつづけました。
ていうか八十代にして、もりもり描きすぎなんですよ在中は。どうでもいいんですけど、後期展示の山水図の屏風の前で、いつも通り「ひとり絵師当てゲーム」してたら、同行の家族に「これ原在中八十二歳だって!」と横からばらされました。すいませんほんとにどうでもいいですね。それくらいパワフルだったと言いたかったんです。

在中はじめ原派のみんなも、土佐派も、狩野派も、円山派も岸派も、あらゆる堅実な流派や作家に連なる絵師たち。「ふつう展」にたくさんでている絵師と作品たち。
まじめさ、丁寧さ、忠実さ、普遍的な美意識のもとに、みな、堂々と描いている。職業人として、よい仕事、すばらしい仕事をしている。己の信じる美を追求している。何百年後にも見惚れるようなうつくしさが、おもしろさが宿る。
それは感性とか、精神性とか、感情の大きさとかとはちがうかもしれない。そういう絵ももちろんいい。でも、どれがほんものかなんて問題にもならない。

4/10の展覧会講座で、「多くの人々が受け継いできた美を守っていく、それも美術の大事な営み」というお話がありました。
「ふつう」を守っていくには、「ふつう」の力では足りない。それが「ふつう」のことではなくて、大きな力や人々や、研ぎ澄まされた感覚がぎゅっと詰まっているからこそ、我々はこんなに魅せられるし、驚けるんじゃないでしょうか。

なんかかっこつけて書きすぎました。すみません。
なんというか、私はせまい価値観に縮こまって生きているので、絵をみることで視界を広げてもらうたびに、いちいち感動してしまうんですね。お前そんなんあたりまえだろ、ということばかり考えています。
でも、自分にとっては絵を描く勇気をもらえる感覚なので、できればちゃんと消化吸収しておきたいと思うのです。だからってnoteに書かなくてもいいだろと言われればそれまでなんですが。
でももしかしたら、書いたら展覧会や江戸絵画に興味を持ってくださる方が、ひょっとしてひょっとするといらっしゃるかもしれないので、という気持ちなのです。
言い訳が長い。

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会期終了まであと少しですが、
多くの方にぜひぜひ「ふつうの系譜」を楽しんでもらえますように!

2年越しに虎ぬりえをようやくできました。
むずかしかった。岸駒すげえ。