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『トイ・ストーリー4』の考察 依存と自立の物語。

ネタバレ全開の考察記事です。

なぜ私は感想や考察を書くのか…

映画の感想や考察って書くのに時間かかるわりに、普通の人からすると「そんな細かいところどうでもいいし、考察とかいってるけど、お前の妄想だろ、きもーー」ってなるので、あんまりいいことがないんだけど、なんで、こんなもの書き続けるのかと考えたら、

ずいぶん前に細田守監督のトークショーみにいったときに、以下のようなことを言ってて

『おジャ魔女どれみ』で、長く生きる魔女役を原田知世さんにやってもらったのは自分のイメージに近かったからお願いしただけだったけど、後から観た人に「『時をかける少女』をやりたかったの?」って聞かれ「そうかもしれない」と言われてから気付いた。
嘘みたいな話だけど『作る』ことによって、『作る』刺激を受けることがある。

意外と作ってる本人も、何を元ネタにして作っているのかって気づかないらしく、細田守監督の場合は、自分の気づかなかった元ネタ『時をかける少女』を他人から指摘され、その作品のリメイクをやったら大ヒットしてしまった監督、ということになる。

なので感想や考察は、『作者のため』というか、周りまわって『自分が好きだと感じられる作品を見続ける』手助けになるのかもしれない、と思って、書きはじめたことを思い出しました。

「いや、トイストーリーの感想をみにきたのに、そんなこと言われても知らんがな」と思うかもしれないけど、『トイ・ストーリー4』は「自分とはなんだろう。なぜこんなことをしてるんだろう」と考えさせられる内容だったのでした。

『トイストーリー4』は『アレクサンダとぜんまいねずみ』と同様に『子どもに愛されるおもちゃでありたい』という依存関係から解放される物語

教科書に載ってる物語なので知ってる人も多いと思うけど、『アレクサンダとぜんまいねずみ』という絵本がありまして、だいたい、こんな話です。

ネズミのアレクサンダが、玩具のゼンマイネズミと出会います。
ネズミは人間に嫌われてますが、ゼンマイネズミは玩具として人間に愛されています。
アレクサンダは自分も愛される玩具になろうとして、他の生物に変身させることのできる不思議な石を探すことになります。

アレクサンダが石を探していると、たくさんの古い玩具と一緒にダンボールに捨てられたゼンマイネズミを見つけます。
ゼンマイネズミの持ち主は、お誕生日に新しい玩具をたくさんもらって、古い玩具は自分も含めて捨てられてしまう、とのこと。

その話をきいた直後、アレクサンダは願いを叶える石を見つけます。
そこで、自分を玩具のネズミに変えるのではなく、玩具のゼンマイネズミを普通のネズミに変えて欲しいと願います。

嫌われものを選んだアレクサンダと、ウッディ

絵本の冒頭では「人間に嫌われているネズミより、人に愛されている玩具のほうが幸せな存在」として描かれているけど、

最後には玩具の幸せは人間に依存したもので、自分の意思や、希望と関係なく、人間が不要だと思ったら捨てられてしまう存在と描かれます。

そして、アレクサンダは最終的に人間に愛されるけど、いつか捨てられてしまう存在より、人間には嫌われるけど自由な存在を選ぶのです。

これ、実は『トイストーリー』1〜4の流れと一緒なのです。

『トイ・ストーリー』は最初から『アレクサンダとぜんまいねずみ』のストーリーをなぞっている。

『トイ・ストーリー1』は、子どもの誕生日会が催され「新しい玩具がきて、自分たちが捨てられてしまうんじゃないか?」と古い玩具たちがビクビクしてるシーンからはじまります。

『トイ・ストーリー3』では多くの玩具たちが捨てられてしまった状態からはじまり、残った玩具たちも最後には不要となり、他人に譲渡されてしまいます。

他人に依存した玩具の幸せと、不幸せ

ウッディたちは、子どもに愛される幸せな玩具として描かれてるけど、『トイ・ストーリー』にでてくる玩具たちがみんな愛されているわけではありません。

『トイ・ストーリー4』では、ギャビー・ギャビーのように最初から欠陥品として一度も子どもに愛されていない玩具や、デューク・カブーンのように最初は子どもに歓迎されたものの、テレビCMとイメージが異なるという理由で愛されなくなった玩具が登場します。

また持ち主がいて、ちゃんと遊ばれているからといって、玩具が幸せであるとは限りません。
『トイ・ストーリー1』のシドは玩具を破壊するのが好きで、玩具が反乱が起こします。
『トイ・ストーリー2』では玩具に落書きする女の子の元にいくことをプロスペクターは嫌がってるし、『トイ・ストーリー3』では、玩具たちが、いもむし組の子どもたちの玩具であることを嫌がるし、ロッツォも新しい持ち主に拾われたけど、しあわせそうには見えません。

『トイ・ストーリー』は全シリーズにおいて「おもちゃの幸せは、誰のおもちゃになるかで、すべて決まってしまう」と描かれているのです。

これは人間に例えると「子どもの幸せは、親で決まる」とか「人生の幸せは、結婚相手で決まる」といった他人に依存した幸せになります。

ウッディがゼンマイを捨てて、自由になる物語

ネズミのアレクサンダが紫の小石を手に入れたとき、玩具として生きるか、ネズミのまま生きるかの選択を迫られます。

アレキサンダは最終的に人間に愛されるけど、いつか捨てられてしまう存在(玩具)より、人間に嫌われる自由な存在(ネズミ)を選びました。

ウッディーも同じように、メリーゴーラウンドの上で、ボニーの元に帰り、玩具として生きるか、ボー・ピープと共に野良の玩具として生きるかの選択を迫られます。

そして、今は大事にされているけど、いつかは手放されてしまう玩具より、人間に不要だと思われる落ちている玩具(ゴミ)になりました。

人の手から離れるときに、消失するゼンマイと、リング

『アレクサンダとぜんまいねずみ』ではネズミと玩具の違いを背中の『ゼンマイ』で表現していて、ゼンマイネズミが、ネズミに変身すると、背中の『ゼンマイ』が消えます。

ウッディも同じように背中のボイスパックのリングが物語中になくなって、そのあと、普通の玩具ではない道を選ぶことになります。

人の手を離れて、一人で生きると決めたとき、人によって動かしてもらえるおもちゃの動力源を二人とも失うのです。

自立ってなんだろう?

玩具は、子どものために作られたものであり、それが存在理由です。
だから、ウッディは遊んでもらえる玩具として、子どものために必死にがんばります。

ただ、当然、子どもが大人になったら玩具は不要になるし、そもそも気に入らなかったら不要(ゴミ)になります。

これまでの『トイ・ストーリー』は「ゴミにならないようにがんばる玩具」の話だったのだけど、『トイ・ストーリー4』では「ゴミになろうとがんばる玩具」が登場します。そう、フォーキーです。

フォーキーの大部分は「使い捨てのフォーク」で形成されているせいか、フォーキーは自我が目覚めた途端「自分はゴミだ」と自覚しており、自分からゴミ箱に何度も入っていきます。

他の玩具だったら、ゴミ箱に落ちたら助けを求めるはずですが、フォーキーはゴミ箱の中に入ることに安らぎや、あたたかみを感じます。

「玩具」が「子どもたちに愛されようとする」のとまったく原理で、フォーキーは「使い捨て品」という役割で生まれてきたので「使い捨てされようとする」わけです。

ただし、フォーキーは、人間への依存はないですが、自立しているようにも見えません。
フォーキーはフォーキーで自分がゴミになることに依存しているからです。
周りの話を聞かず、まるで、何度も自殺未遂を繰り返すかのように、何度もゴミ箱へ入っていきます。
(あれは、あれでしあわせそうなので、そのままでもよかったんでしょうけど)

「君の抱えてる問題がわかったよ、君はゴミなんだ」

「玩具」の定義を「子どもが成長するまでの遊び相手」だと捉えたら、実は玩具も、使い捨てフォークと同じく目的を終えたらゴミになるのが正しいのかもしれません。

実際、ウッディはもうクローゼットの中で、ほこりにまみれるくらい遊ばれていません。
アンディでさえ成長したらウッディと遊ばなくなりました。
すでにウッディを必要としてないボニーが成長したらどうなるでしょうか。

フォーキーはウッディに対して、はっきりといいます。
「君の抱えてる問題がわかったよ。君はゴミなんだ」

でも、それを考えたら人間だって同じです。
わたし達も、誰かに必要にされないと、ゴミになってしまうのでしょうか。

友だち親に見捨てられたら? 恋人にふられたら? 会社を辞めてしまったら?

『トイストーリー4』も、『アレクサンダとぜんまいねずみ』もエンディングで一つの答えを出しています。

ウッディは、ギャビーギャビーを助け、ボニーと一緒に旅立つことを決めたとき、人間からの依存から解き放たれます。

ネズミは、アレクサンダを助けて、一緒に暮らすために、人間への依存心を捨て、アレキサンダをネズミに変えます。

自立とは、決して孤独になることではありません。

二つの作品の中では、自分の意思で、自分の新しい居場所(依存先)を作ると決めたとき、自立と共に、物語が転じて、ハッピーエンドで終わります。


おまけ 『ウッディは呪いの人形』

『トイ・ストーリー』は1〜3までは作中にヴィラン(悪役)が登場し、物語の最後にはヴィランが不幸になって終わるのがこれまでの『トイ・ストーリー』です。

しかし、トイ・ストーリー4で一番不幸な目にあうのはボニーのパパ(子どものおもちゃの紛失、車の故障など)です。
ですが、ボニーのパパが玩具に対してした悪い行為というと、冒頭でウッディを踏んづけただけです。
これだけで、あんな不幸な目にあっていいものなのでしょうか。

そんなわけで、前作まで大きく違う『ヴィランの不在』という観点から、「ウッディは災いをもたらす呪いの人形である」ということに気付きました。

過去作品で、すでに事件を起こし、目撃されているウッディ人形

シリーズを通してみると、ウッディはかなり呪いの人形めいた事件を起こしています。

・被害者その1 シド(トイ・ストーリー1)

実は『トイ・ストーリー1』で、すでに玩具の扱いが悪いシドに対してウッディは「玩具のルールをやぶることになるけど」と自覚した上で、堂々とルールをやぶり、他の玩具たちと一緒にシドを怖がらせるということをやってます。
正直、シド視点からみたら、普通に呪いの人形にしか見えません。

・被害者その2 アル(トイ・ストーリー2)

『トイ・ストーリー2』では、ウッディを盗んだアルが、おもちゃの修理職人に頼んで直してもらい、日本の博物館に写真をFAXして確認をとってから、丁寧に国際便で送りだした玩具が紛失するという事件が起きてます。
かなり高額な取引だったらしく、この件が決定打になったのか、アルのお店は潰れてしまいます

・被害者その3 交通事故にあった人たち(トイ・ストーリー2)

アルのお店『トイ・バーン』の前にある道路では、ウッディを探しにいった玩具たちのせいで、かなり大規模な交通事故が起きてます
壊れたタイヤが転がったり、電信柱が倒れたりしていたので、かなり大事故だったと考えられます。

・被害者その4 空港のスタッフ(トイ・ストーリー2)

『トイ・ストーリー2』のエンディング付近にワンカットだけでてくるんですが、アンディの家の前に空港のエアカーゴが停まってます。
これは玩具たちが空港のエアカーゴを運転して家に戻ってきた、という意味なので、エアカーゴが勝手に動いて、民家の前に停まったという珍事件が発生してます。
実害は少ないほうですが、それでも空港会社の不祥事として、ニュースになる事件です。

・被害者その5 ロン(トイ・ストーリー・オブ・テラー!)

『トイ・ストーリー・オブ・テラー!』は『トイ・ストーリー3』の続きとして作られたテレビ向けの短編アニメです。
ロンは盗んだウッディをネットオークションで転売しようとするけど、発送する段階でバレて、ボニーの母によって通報され、あわてて車で逃げ出したロンは衝突事故を起こし、なんとか車から逃げ出すも、警察から追われる身となります。

どうですか、この数々の呪いと祟りの数々、ウッディは玩具たちからしたらヒーローなのかもしれませんが、正直、人類側からみたら、完全に呪いの人形です。

ウッディのせいで、他の玩具はルールをやぶる

『トイ・ストーリー』の主役であるウッディは、他のおもちゃにはルールを守れといっておきながら、わりと頻繁にルールを破ってます。

また、他の玩具も基本的にはルールをやぶらないけど、ウッディがらみになると、途端にルールを破りだします。

『トイ・ストーリー2』の交通事故も、ウッディを助けるために起こったし、『トイ・ストーリー4』の車の暴走もウッディを助けるために行われました。

まるで、ウッディは玩具のルールをやぶれる特殊な存在であり、他の玩具もウッディのためになると玩具のルールをやぶるという法則があるようです。

私の考えた『トイ・ストーリー5』の設定

もう完全にわたしの妄想ですが、『トイ・ストーリー5』がでたら、ウッディは有名な呪いの人形として都市伝説化してるんじゃないかと思います。

前述したように、すでに多数の目撃情報があるし『トイ・ストーリー・オブ・テラー!』ではついにウッディの写真がインターネットに出回ってしまいました。

こういった画像や、目撃談から、世界的に有名な呪いの人形になり、人間からは恐れられ、逆に人間に恨みをもってる玩具たちから英雄扱いされている可能性があります。

「ウッディは玩具のルールをやぶれる特殊な存在であり、他の玩具もウッディのためになると玩具のルールをやぶる」という法則の規模をあげていくと、『人類VS玩具』を描いた大スペクタクルコメディ作品になるんじゃないかと思ってます。

以上、考察でした。


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