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読書メモ #9 『生命式』 村田沙耶香

12つの短編集だった。すっごく好き
「生命式」、「大きな星の時間」、「魔法のからだ」、「孵化」この4つにやられた。

生命式

人が死ぬと、葬式ではなく生命式を行う。そこに集う人々は喪服ではなく派手な服装をしていて、みんなで故人の肉を食べる。(臭みがあるので基本味噌煮込みにする)派手な服装には訳があって、そこで気に入った異性と式場を後にして受精をするため。この背景には深刻な人口減少がある。亡くなった命を食べ、そして新しい命を作るという文化。
まずショッキングなのはやはり人肉を食べるという行為。
「うん、美味しい。奥さん、中尾さんはなかなか美味しいよ」
「美味しいですね、山本さんのカシューナッツ炒め」
作中、こんなセリフが飛び交う。
そして生命式で出会った男女は「受精してきます」「新しい命を作れるように頑張りまり」と言い残して式を出る。この文化の中ではもはや行為にセクシュアルな側面はない。
このような奇を衒った設定の作品は、その設定自体に新鮮さや斬新さを感じてそれを楽しむというのがよくあるパターンかと思う。いわゆる「ここは〜〜するのが当たり前な世界」みたいな。ただこの物語はそうではなくて、私はそれがとても好きだった。というのは、まず30年前はその価値観は存在しなかったようで、人肉を食べるのはタブーとされていた。でもその頃の記憶がある人も今やすっかり生命式を受け入れ、「人肉を食べたいと思うのって、人間の本能だなあって思う!」とすらこぼす。この物語は、社会の常識・正常が次第に変化していき、そしてそれをほとんど疑問も抱かず受容する大衆に戸惑う主人公を描いている。
「正常は発狂の一種でしょう?この世で唯一の、許される発狂を正常と呼ぶんだって、僕は思います」
今正常であることが、数十年前もしくは数十年後の世界に狂ったことに分類されるというのはなんら珍しいことではない。ただその移り変わりを引きで見たときの違和感、言うなれば憤りに焦点を当てていることに面白さを感じた。

この「生命式」の章を筆頭に、この本は、現代社会を軸にするとそこから大きく外れた価値観が蔓延る世界を舞台が舞台で、そしてそれを諾うことができない人の葛藤に注目した短編集になっている。

大きな星の時間

たった4ページなのにすごく綺麗で悲しい話だった。
誰も眠くならず、誰も眠ることのない街に引っ越してきた女の子が、そこにすむ男の子と出会う話。この設定だけでも惹かれるものがある。
「大きな星の時間」と「小さな星の時間」という表現があまりにも綺麗。
太陽が出ている日中は「大きな星の時間」とされ、住民はその眩しさに家に篭る。太陽が沈む「小さな星の時間」にやっと街は賑やかになる。
この街に来るともう眠ることが出来なくなると知った女の子が、「大きな星の時間」に出会った男の子に「大人になったら、一緒に気絶しましょう」と提案する。
幼いからこその発想というか、大人だったらこうはならないだろうな。
眠ることを知っている女の子と、眠ることを知らない男の子が、同じ感覚を共有するために一緒に気絶する。全く違う価値観の2人が無垢ゆえにお互いをすんなり受け入れて、最後には価値観の共有を目指すという流れが美しくて切ない。

魔法のからだ

これもまた幼さや無垢さが描かれていた。
詩穂は小学1年生の時点でセックスの経験があって、主人公の瑠璃はそれにとても驚く。でも詩穂はもともとその知識があって行為に及んだのではなく、単純に好きな人の内側に行きたいと思ったからしたのだと言う。詩穂がキスやセックスの存在を知ったのはずっと後のことで、それを知ったときに詩穂は
「ちょっとほっとしたけど、がっかりもしたなあ。」
らしい。
知識がない状態で欲望のままにキスをすること(あくまで結果としてキスだっただけ)を詩穂は「キスを作る」と表現した。クラスの男子がエロいとはしゃぐそれらの行為と、詩穂が作ったキスやセックスは同じように見えて全くの別物だった、と思う。
無知なことが尊いわけではなく、それが愛し合う行為という先入観を持たずに自らの欲望でその行為に至ったことが尊いと思った。さらにその欲望は詩穂の言う通り、大切な人とだけ共有することで意味を成すのだとも思った。

孵化

共感、という点ではこれが一番だった。
場面ごとに5つの性格を持つ高橋ハルカ。
地元の友達の前ではしっかり者で「委員長」と呼ばれ、高校の友達の前では天然な「アホカ」、サークル仲間の前では可愛らしい「姫」、バイト仲間の前では男勝りな「ハルオ」、職場ではクールな「ミステリアスタカハシ」。
自分の結婚式に友達を呼ぶにあたって、ハルカはどの自分でいればいいのか分からなくなる。そもそも、1人のハルカしか知らない婚約者にもなんて言えば?と混乱する。
ハルカほど激しくはないにしろ人間誰にでも多面性はある。家族、恋人、友達などそれぞれの場面で自分を自然と使い分けることが多い。私も昔から八方美人と言われて少し嫌われたりもしたがそれを後悔してはいなくて、それぞれの場面で望ましい自分を演じることに意味を感じていた。
でもハルカと同じようにじゃあ本当の自分はどれ?と悩むこともあって、今もそれはよく分からない。
結局ハルカは友達から「6人目のハルカ」をもらう。それはすごく性格が悪いキャラクターで、婚約者の前でそのハルカを見せると、本当のハルカを打ち明けてくれてありがとう!と感動される。正直気味が悪いとおもった。いつだって素の姿、本当の姿とされるのはなぜか悪い方だ。その気持ちも分かるが、作中、そこで芽生える婚約者のハルカへの愛情はとても奇妙だった。
結局のところ、目の前の相手にはもしかしたら違う顔があるのかも、と懐疑的になったところでそれは意味の無いことなのかもしれない。相手が自分にみせてくれる姿をそのまま受け入れたい、受け入れるしかないんだと思った。
理想論だけど。
それに、自分の複数の顔の全てを見て、否定も肯定もしないでくれるような人間の存在も必要だと思った。
これも理想論だけど。


本当に好きな作品だった。
「街を食べる」「パズル」はあまりスムーズに読み進められなくてそのまま閉じてしまったのでまたチャレンジしたい。
狂気と正常の表裏一体な感じ、どちらがどちらにも寛容で柔軟であって欲しいなと思った。

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