見出し画像

#53『塩の話』Vol.3

「塩の精製の歴史」
 今から約3,000年前の縄文時代の終わり頃には、塩作り専用の土器(製塩土器)が使われ海水を煮詰めて塩を取っていたことがわかっています。弥生時代や古墳時代になると、海藻を使って海水を濃縮してから製塩土器で煮詰める「藻塩焼」(=海藻に付いた塩に海水をかけて濃い海水(鹹水=かんすい)をつくり土器で煮詰める)が行われるようになりました。
 奈良時代から平安時代になると、海藻の代わりに砂を使って鹹水を取る「塩浜」が現れるようになりました。「塩浜」は、「揚浜」と「入浜」があり、「揚浜」は、干満差が少ない海岸で海水を運んで「鹹砂」から「鹹水」を作る方法のことをいいます。「入浜」は、干満差が大きいことを利用して海水を「塩浜」に導き「鹹砂」を作る方法です。
 昭和のはじめに「真空式蒸発缶」が開発されるまで、釜の改良はなされましたが、基本的にはこのような手作業で塩作りが行われてきました。

「塩と保存」
 冷蔵や冷凍のなかった時代に、塩は保存のための貴重な手段の一つでした。塩と同じように、味噌や醤油も保存食として使われていました。野菜や山菜などを塩漬けにしたものを草醤(=くさびしお)といい、魚を塩漬けにしたものを魚醬(=うおびしお)といいました。また、大豆や麦などの穀物を塩漬けにしたものは穀醤(=こくびしお)と呼ばれていました。
 塩は、野菜・肉、魚などの水分を吸収することで細菌が繁殖するための水を奪い、使うときは水抜きをすることで利用することができました。やがて、塩は雑菌を抑えるだけではなく、旨みをつくりだす「麹菌」や「乳酸菌」などの微生物がはたらく塩加減が工夫され調味料の発展にも大きな役割をはたしました。現在では、塩漬けや漬物は「塩鮭、梅干、野沢菜、数の子など」そう多くはありませんが、日本の食卓にはなくてはならないものですね。

「塩の道」
 日本は四方を海に囲まれた国ですから、塩を手に入れることは難しくないと思われがちですが、技術や交通手段が発達していなかった昔は大変なことでした。新潟県の糸魚川から長野県の松本に運ばれた「千国街道」は特に有名な塩の道の一つですが、全国に塩の道がつくられていました。竹で編んだ籠や俵に入れて馬で運ばれましたが、馬が入れないような場所は、「ボッカ」と呼ばれる人が担いで運んでいました。
 『塩の話』最後のVol.4 では、その他の塩にまつわる話をまとめて見たいと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?